【Viparītāni】あべこべなことが見える
Nimittāni ca paśyāmi viparītāni keśava. Viparītāniとは「まったく逆のこと」という意味です。「私は自分の王国を取り戻すために戦う目的でここに来た。それが戦う理由である。だが実際に見てみると、それはまったく逆である。私の戦いは無意味になりそうだ。有意義な目的のために戦いに来たのに、今やviparītāni―つまり正反対―無駄になるように見える。」なぜ無駄になるのか?それは、人が金持ちになろうとするのは―これは物質的な性質ですが―親戚や友人、家族に見せびらかすためです。「ご覧なさい、私はこれほど裕福になったのですよ」と。この心理があるのです。人は昼夜を問わず一生懸命働いて金持ちになろうとしますが、それはただ「親愛なる友人たち、親戚の皆さん、見てください、私はこれほど裕福になりましたよ」と見せるためだけなのです。これが唯一の目的です。誰もクリシュナに仕えるために一生懸命働いてはいません。これがmāyāです。そして、クリシュナ意識とは、同じ苦労をしながらも、それをクリシュナのために捧げるということです。働く能力をやめる必要はありません。ただ、その立場を変えるだけでよいのです。家庭生活の中では、いわゆる親族のために無駄に働いていますが、その同じ労力をクリシュナへの奉仕に使えば、その一寸一分がすべて活用されるのです。ゴーヴィンダ・ダーサの歌に、こういう一節があります:「śīta ātapa bāta bariṣaṇa e dina jāminī jāgi re, biphale sevinu kṛpaṇa durajana, capala sukha-laba lāgi re」(『Bhajahū Re Mana』第2節)彼はこう言っています:「寒さ、暑さ、風、雨の中でも日夜目を覚まして働いてきた。」実際、人々は本当に懸命に働いています。たとえば雪が降っても、会社には行かねばなりません。止めるわけにはいかないのです。あるいは、酷暑の日でもです。あなたの国では経験がないかもしれませんが、インドでは摂氏50度近くになることもあります。それでも人々は仕事に行かなければならないのです。ある場所では極寒、ある場所では酷暑。これは自然の法則です。苦しみは避けられません。寒い国に住んでいると「インドは暖かくて幸せそうだ」と思い、インドにいる人は「イギリスは豊かで幸せそうだ」と思います。これが幻想なのです。誰もが思い違いをしています。この三界―BrahmalokaからPātālalokaに至るまで―どこにも本当の幸福はありません。Janma-mṛtyu-jarā-vyādhi-duḥkha-doṣānudarśanam [Bg. 13.9]。たとえBrahmalokaに行き、何百万年も生き、何千倍も豊かな生活を送ったとしても、そこに本当の幸福はないのです。人々はそれを知らないのです。Janma-mṛtyu-jarā-vyādhi-duḥkha-doṣānudarśanam [Bg. 13.9]。だからこそ「mad-dhāma gatvā punar janma na vidyate」―主のもとに帰ること、それだけが目標であるべきなのです。
「nimittāni viparītāni」―とは、物質的な意識の中にいるからです。人は「自分の幸せ」「家族の幸せ」「社会の幸せ」「国の幸せ」「共同体の幸せ」など、自分の利己的な範囲を拡大することで「幸せ」を追い求めます。最初は「自分の幸せ」。子どもは誰の幸せも考えず、何でも自分で食べたがります。それが成長すると「自分と兄弟の幸せ」「家族の幸せ」「コミュニティの幸せ」「国家の幸せ」へと広がっていきますが、どこまでいってもそこに本当の幸福はありません。これは幻想なのです。愚かな者たちはそれを知りません。アルジュナもまた普通の愚かな人のように振る舞っています。「nimittāni viparītāni」―「どこに私の幸福があるのか?私は幸福を得るために戦場に来たのに、自分の親族を殺さねばならない。これでどうやって幸せになれるのか?一人で王国を得たとしても、親族や兄弟がいなければ、それを誇ることもできない。『見よ、私は王になった!』と誰に言えばよいのか?」―これが人間の心理です。「nimittāni ca viparītāni paśyāmi」―「あべこべなことが見えてきた。」これが幻想なのです。
誰もがそれを経験します。物質的な執着がある限り、人はviparītāni(逆の結果)を見る。「私
は〜になりたかったのに……」「Sukhera lāgiyā, e ghara bandhinu, aguṇe puriyā gelā」こういうことが起こります。人は幸福のためにすべてを築こうとするが、必ず何かが起こって、最も惨めな状況に突き落とされます。これが物質世界というものだ。人々はそのことを知りません。だからこそ、賢い者はこう考える。「もし、こんなにも見せかけの幸福のために一生懸命働かなければならないのなら、そしてここにKṛṣṇaが『私のために働きなさい』と呼びかけているのなら、なぜKṛṣṇaのために働かないのか?」ここではviparītāni、すべてが逆さまで、幸福はありません。これが知性だ。「どうせ努力するなら、クリシュナの言うようにSarva-dharmān parityajya mām ekaṁ śaraṇaṁ vraja [Bg. 18.66]に従った方がよいです。クリシュナはすべてを放棄して私のために働けと言っています。これは明らかで、誰もが知っています。今ここでも私は幸福になるために必死に働いているが、結果はviparītāni、不幸になっています。ならば、なぜクリシュナのために働かないのか?」これが本当の知性です。結局、私は働かなければならないのです。Jīvera svarūpa haya nitya-kṛṣṇera dāsa [Cc. Madhya 20.108-109]。すべての生き物は本質的にしもべである。クリシュナに仕えなければ、māyāに仕えなければなりません。それだけです。そのしもべとしての性質はなくなりません。

Ḍheṅki svarga gele sva-dharmān ―Ḍheṅkiを天国に送ったとしても、それは変わらず脱穀機の働きをします。タイプライターのようなものだ。タイプライターを天国に送っても、それはタイプするだけです。天国に行ったからといって、その働きが変わるわけではない。どこにいようが、地獄でも天国でも、タイプライターは「カタカタカタカタ」と動くだけだ。同じように、私たちの本性もしもべです。もしクリシュナに仕えないなら、妻に仕え、子供に仕え、親族に仕え、国に仕え、犬に仕えることになります。最後には、家族すらいなければ、犬に仕えるようになります。実際にそうなっています。もしクリシュナのしもべにならなければ、犬の僕になるのです。これが自然の法則です。なので、賢い人はここから学びます。「どうせしもべになるのなら、なぜクリシュナのしもべにならないのか?それなら幸福になれます。多くのクリシュナのしもべたちはとても幸せそうです。なぜ私はmāyāのしもべでい続けるのか?」Kāmādīnāṁ katidhā
だから私たちは、自分の感覚を満足させたいという理由で、結局 māyāの召使いであり続けるのです。それだけです。私は自分の感覚を満たしたいから妻の召使いであり続けます。私は感覚の満足のために夫の召使いでいようとします。これが病なのです。たとえしもべのしもべであってもまたは犬のしもべであっても[Cc. Madhya 13.80]、ペットの犬が好きだからです。つまり、本当は主人になりたいはずなのに、私たちはしもべになってしまうのです。これが事実です。では、誰のしもべになっているのか?Kāmādīnāṁ kati na katidhā pālitā durnideśāḥ [Brs. 3.2.35, Cc. Madhya 22.16]。欲望(kāma)、怒り(krodha)、錯覚(moha)、嫉妬(mātsarya)など、貪欲のしもべです。これらすべての感覚のしもべなのです。だから、賢い者はこう考えるのです。昔、あるブラーフマナが言いました。「親愛なる主クリシュナよ、私は今、召使いです。ずっと仕えてきました。Kāmādīnāṁ kati na katidhā durnideśāḥ。私は彼ら(欲望など)にとてもよく仕えたために、忌まわしいことまでしなければならなくなりました。」誰かの召使いになると、「これをしなさい」と命じられたとき、良心がそれを拒んでも、それでもやらなければならないのです。家族のために盗みを働く男がいます。盗みたくはないけれど、お金が必要だから盗むのです。Kāmādīnāṁ kati na katidhā pālitā durnideśāḥこれは心理的な状態の研究なのです。私が māyā の召使いになると、たとえ自分の望まない、良くないことでも、せざるを得なくなるのです。しかしその結果はどうかというと、誰も満足していないのです。
親愛なる主よ、私はこれまで、欲望、怒り、貪欲といった感覚たちに仕えてまいりました。それほどまでに尽くしてきたのに、それでも彼らは私に優しくしてくれません。彼らは今なお命令してきます―『これをしろ、あれをしろ、これもしろ、それもしろ』と。ですから、samprataṁ labdha-buddhi―『今、私はあなたの恩寵によってようやく知性を得ました』。Guru-kṛṣṇa-kṛpayā [Cc. Madhya 19.151]―精神的師の恩寵と、あなたご自身の恩寵によって、私はこの知性を得ることができました。今、私はあなたのもとへやって来ました。奉仕させてください。どうか私をお使いください。」これが降伏(サレンダー)というものです。「私は欲望や貪欲、その他の感覚たちにとても忠実に仕えてきました。しかし、彼らは満足してくれません。まだ私に仕えろと言ってきます。彼らは私に年金をくれることもありません。むしろ今もなお『お前はまだこれだけのことをやらねばならない』と言ってきます。だから私はもううんざりしています。」これがvairāgyaと呼ばれるものです。Vairāgya. Jñāna-vairāgya-yuktayā [SB 1.2.12]―知識と離欲によって武装すること、これが人間の人生において必要なのです。この知性、vairāgyaは、物質世界に仕えるのではなく、クリシュナに仕えるために必要です。非人格主義の哲学者たちは、単に物質的活動をやめることだけを説きます。たとえば仏陀の哲学、ニルヴァーナ)のように。彼はただ、「これらの活動をやめなさい」と教えます。しかし、「やめたあと、どうなるのですか?」と問えば、彼らは「いや、ゼロになるのだ」と答えるのです。それはあり得ないことです。それは間違いです。しかし、仏陀が説法した当時の人々は、それらの活動をやめた後に、より良い奉仕があるというほどの知性を持っていませんでした。ですから、仏陀は「この奉仕をやめれば幸せになれる。なぜなら究極的にはすべてはゼロである」と言ったのです。これがŚūnyavādī.(虚無主義) Nirviśeṣavādī.非人格主義です。
マーヤーヴァーディについて…マーヤーヴァーディには二種類あります―非人格主義と虚無主義者です。彼らは皆マーヤーヴァーディです。彼らの哲学は、ある程度までは良いものです。なぜなら、愚かな者にはそれ以上の理解はできないからです。愚かな者に、「精神的世界にはより良い人生があり、神、すなわちクリシュナに仕える者になれる」と伝えると、彼らはこう思います―「私はこの物質世界のしもべとして苦しんできた。なのに、またクリシュナのしもべになるのか?ああ…」と。そして身震いしながら言うのです、「いやいや、それは良くない、それは良くない」と。彼らは「奉仕」という言葉を聞くと、すぐにこの物質世界でのくだらない奉仕を思い浮かべます。彼らは、「奉仕」とは至福であり、喜びそのものだということを理解できません。精神的世界では、誰もがより熱心にクリシュナに仕えたくなるのです。それが精神的世界なのですが、彼らにはそれが理解できません。こういったnirviśeṣavādī非人格主義者は、そのように考えます。ちょうど、病気で寝込んでいる人が、「治ったらおいしく食べられるようになり、歩けるようになる」と聞いても、「また歩くのか?また食べるのか?」と思うようなものです。というのも、彼は苦い薬や不味いサグダーナばかり食べていて、寝床で排泄するような生活に慣れているからです。治った後も「排泄や食事はあるが、それはとてもおいしい」と言われても、彼には理解できません。「今と同じようなものだ」としか思えないのです。ですから、マーヤーヴァーディの非人格主義者たちは、クリシュナに仕えることが至福と喜びそのものであることを理解できません。彼らには理解不能なのです。だから彼らは非人格論に陥るのです―「絶対真理が人格を持つはずがない」と。これは仏教哲学の一面でもあります。非人格とは、結局ゼロを意味します。つまり、彼らの最終的な目標もゼロなのです。仏教徒もまた最終目標をゼロに置き、マーヤーヴァーディもまた同じように…Na te viduḥ svārtha-gatiṁ hi viṣṇum [SB 7.5.31]のです。彼らには、クリシュナに仕えることによってこそ得られる、至福の人生があるということがわからないのです。
ですから、ここでアルジュナは普通の人のように振る舞っています。彼はクリシュナにこう言います。「あなたは私に戦って王国を得て幸せになれと言いましたが、自分の親族を殺してですか?ああ、nimittāni viparītāni。あなたは私を誤った方向に導いています。」Nimittāni ca paśyāmi viparītāni—「私は逆の前兆ばかり見ています。自分の親族を殺して幸せになれるはずがありません。それは不可能です。なぜあなたは私をそう仕向けるのですか?」それで彼はこう言いました、nimittāni ca viparītāni paśyāmi—「いや、違う。」Na ca śaknomy avasthātum—「私はここに立っていられない。戻らせてくれ。私の戦車を引き返してくれ。私はここにはとどまらない。」Na ca śaknomy avasthātuṁ bhramatīva ca... [Bg. 1.30]—これが物質世界の立場なのです。私たちは常に問題や混乱の中にあります。そして、何かより良いもの、つまり「クリシュナ意識を受け入れれば幸せになれる」と物質主義者に提案しても、彼はnimittāni viparītāni、まるで逆のもののように見えるのです。「このクリシュナ意識でどうやって幸せになれるのか?私の家族は問題を抱えているし、他にもたくさんの問題がある。このクリシュナ意識が何の助けになるのか?」Nimittāni ca viparītāni。これが物質的生活の条件なのです。だからこそ、理解するには少し時間が必要です。それが『バガヴァッド・ギーター』なのです。同じアルジュナが、今はnimittāni ca viparītāniと感じていますが、『バガヴァッド・ギーター』を理解した後には、こう言います。「はい、クリシュナ。あなたの言う通りです。その通りです。」なぜなら、クリシュナがアルジュナに教え終わった後、「さて、お前はどうしたいのか?」と尋ねるからです。クリシュナは決して強制しません。「私に降伏しなさい」とは言いますが、「必ず降伏しなければならない、私は神なのだから。あなたは私の部分であるのだから」と強制はしないのです。決してそうは言いません。なぜなら、クリシュナは私たちにわずかながらも独立性を与えており、それを決して侵しません。そうでなければ、石と生き物の違いは何でしょうか?生き物には独立性がなければなりません。たとえ非常に小さなものでも。その自由をクリシュナは決して奪いません。決して触れません。私たち自身が「はい、クリシュナ。私はあなたに降伏します。それが私の利益のためです」と同意しなければならないのです。
これがクリシュナ意識です。自発的に同意しなければなりません―形式的で機械的なものではありません。「精神的師がこう言ったから、まあ、やっておこう」―それではいけません。それをよく理解しなければなりません。Teṣāṁ satata-yuktānāṁ bhajatāṁ prīti-pūrvakam [Bg. 10.10]。Prīti―愛をもって。働くとき、愛と熱意をもってクリシュナのために働くとき、それがあなたのクリシュナ意識の人生です。もしあなたが「これはマンネリで、骨が折れる。でも仕方がない。周りの人たちがやれというから、やらなくちゃ」と思っているなら、それはクリシュナ意識ではありません。あなたは自発的に、そして大きな喜びをもってそれを行わなければなりません。そうして初めて、あなたは真に理解するのです。
utsāhān dhairyāt niścayād
tat-tat-karma-pravartanāt
sato vṛtteḥ sādhu-saṅge
ṣaḍbhir bhaktiḥ prasidhyati
[Upadeśāmṛta 3]
『Upadeśāmṛta』にも出てきます。常に熱意をもっているべきです―utsāhāt(熱意)。Dhairyāt(忍耐)をもって。Tat-tat-karma-pravartanāt、niścayāt。Niścayātとは、自信をもつことです。「私はクリシュナの仕事に従事しているのだから、必ずクリシュナが私を故郷に連れ戻してくださる」と。Niścayāt。そしてクリシュナはこう言っています―man-manā bhava mad-bhakto mad-yājī māṁ namaskuru [Bg. 18.65]:「私はあなたを連れ戻す」と。これは明確に述べられています。クリシュナは嘘をつく方ではありません。だから、私たちは熱意をもって働かなければなりません。ただし...逆のことをしてはなりません。これは最後にアルジュナが受け入れることになります。クリシュナはアルジュナにこう尋ねます―「親愛なるアルジュナよ、今、あなたの決断はどうですか?」 アルジュナは言います、「はい。Tvat prasādāt keśava naṣṭa-mohaḥ―あなたの慈悲によって、私のすべての迷いは消え去りました。Kariṣye vacanaṁ tava [Bg. 18.73]―今こそ私は戦います。はい、私はすべての親族を討ちます」と。