Bhagavad-gītā 1.11–12補説
つまりドゥルヨーダナは疑っていたのです。「私の祖父ビシュマは、あの敵側に対してより愛情を抱いているようだ。だから戦いでは手加減するかもしれない」と。それで、ドゥルヨーダナを励ますために、tasya sañjanayan harṣam―「私が手加減しているなどと思うな。私は強いのだ」――そう言わんばかりに、彼はすぐに自分の法螺貝を吹いたのです。現代ではラッパが使われますが、昔は王たちが法螺貝を使っていたのです。
そして現代のようなことではないのです…現代では、戦争が起こると、貧しい兵士たちが前線で戦い、指導者たちは安全な場所に留まります。しかし、あの時代は違いました。すべての者たちが戦場に出てきたのです。クシャトリヤとして。ビーシュマデーヴァも、ドゥルヨーダナも、アルジュナも戦場に出ました。そして、彼らは面と向かって戦わなければなりませんでした。貧しい兵士たちだけが戦い、指導者たちが安全な場所にいる、そんなことはなかったのです。いいえ。「tasya sañjanayan harṣaṁ kuru-vṛddhaḥ」 ― それは「その喜びをかき立てる、クル族の長老」という意味です。クル族の長老、クル朝の最年長者、ピターマハ(偉大なる祖父)、彼はアルジュナとドゥルヨーダナの祖父であり、ドリタラーシュトラの伯父、つまり彼の父の兄でした。非常に高齢でありながら、しかも生涯独身のブラフマチャーリー(禁欲者)であり、その老齢においてさえ、戦うという危険を引き受けていたのです。
これはクシャトリヤの精神です。ただ単に…例えば、ドリタラーシュトラは戦場に出てきませんでした。逃げたわけではなく、彼は身体的に不可能、盲目であったために戦場に来なかったのです。そうでなければ、ビーシュマデーヴァのように、あれほど高齢でも戦に参加しました。これがクシャトリヤの精神なのです。戦いがあるときには、休むということはありません。戦いとは、「相手を殺すか、自分が殺されるか」という意味です。決着がつくまで戦いは終わりません。「殺しもせず、殺されもせずに戦いをやめよう」などということはありえません。それは決してあってはならないのです。二つの勢力があるときは、必ずどちらかが攻めるのです。だから、決着とは「お前が私を殺すか、私がお前を殺すか」なのです。「どちらかが死ななければ戦いは終わらない」、それが戦いなのです。
ちょうどジャラースンダがビーマと戦っていたように、昼間は戦いが続き、夜になるとビーマはジャラースンダの客となり、客として敬意をもって迎えられ、もてなされていました。しかし昼になると再び戦いが始まりました。この戦いは28日間も続きましたが、決着はつきませんでした。そこでクリシュナがビーマセーナにヒントを与えました──「ジャラースンダには欠陥がある。彼は二つの体が結合してできている。だから、彼を真っ二つに裂けば倒せるだろう」と。後にビーマセーナはこの戦法を取り、ジャラースンダを倒しました。
だから、クシャトリヤの間では、戦いが始まったら、どちらか一方が倒されない限り戦いは終わりません。これがクルクシェートラの戦いであり、かつての王たちやクシャトリヤたちの歴史を見ると、彼らがどれほど決意に満ちていたかがわかります。これがクシャトリヤの資質の一つです——戦いから逃げないこと。戦いの挑戦があれば、クシャトリヤはすぐにそれを受け入れます。それがクシャトリヤの精神であり、支配性(īśvara-bhāvaṁ)を持ち、他を統治し、施しを行う。これらがクシャトリヤの特徴です。
彼らはバガヴァッド・ギーターの中で説明されています。ブラーフマナの資格、クシャトリヤの資格、ヴァイシャの資格、シュードラの資格です。つまり…ヴェーダ文明は非常によく整った体系なのです。すべての人が上位者に導かれています。ブラーフマナはクシャトリヤを導き、クシャトリヤはヴァイシャを導き、ヴァイシャはシュードラを雇用します。
Cātur-varṇyaṁ mayā sṛṣṭaṁ guṇa-karma-vibhāgaśaḥ [Bg. 4.13]
このようにして、ブラーフマナ、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラという4つの階層が社会全体を非常にうまく管理しているのです。クシャトリヤの仕事は市民を保護することであり、同様にヴァイシャの義務は動物を保護することでした。
Kṛṣi-go-rakṣya-vāṇijyaṁ vaiśya-karma svabhāva-jam [Bg. 18.44]
ヴァイシャは農業生産に従事し、特に「牛の保護(go-rakṣya)」が明記されているように、牛の保護を行うべきなのです。
ゴーラクシャ(牛の保護)は国家の責務の一つです。しかし、今では牛の保護はまったく行われていません。かわいそうな牛たちは、まず人々にミルクを与えた後、最終的には屠殺されてしまいます。現代社会はどれほど罪深いものでしょうか。それでも人々は平和と繁栄を望んでいるのです。それは不可能です。社会はブラーフマナ、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラに分けられ、それぞれが適切な職務を遂行すべきです。ヴァイシャ(商人階級)は牛を保護するべきです。そしてシュードラ(労働者階級)は、上位三つのヴァルナの指示のもとで働くべきです。こうすることで、社会は良く管理されるようになるでしょう。
それから、『シュリーマド・バーガヴァタム』にあるように、ユディシュティラ王の治世の間、「kāmaṁ vavarṣa parjanyaḥ」と記されています。それと同じように、物事が正しい方向に保たれていれば、自然もまた協力してくれるのです。あなたが規則に従って物事を整えれば、自然もあなたを助けてくれます。自然は十分な食料を与えてくれるでしょう。「vavarṣa parjanyaḥ, kāmam」——つまり、人生に必要なものは、適切に雨が降ることで自然が供給してくれるのです。実際、今や世界中が干ばつに苦しんでいます。雨が不足しているのです。
そして、もし雨があと1年か2年止まったままだったら、大混乱になります。実際、すでに混乱は起こっています。インドでは飢饉が起きています。なぜなら、インドの人々の多くは農業従事者だからです。だから飢饉が起きるのです。他の国々には工業がありますが、インドはそれほど工業的に発展していません。ですから、水がなければ何も生産できません。だからこそ、ユディシュティラ王の時代には「kāmaṁ vavarṣa parjanyaḥ」(シュリーマド・バーガヴァタム 1.10.4)とあり、「yajñād bhavati parjanyaḥ」(バガヴァッド・ギーター 3.14)とも述べられています。十分な水を望むなら、ヤジニャを行わなければなりません。これがヴェーダの智慧の指示・教えなのです。
現在の時代においては、他のいかなるヤジニャ(供犠)も実行することは困難です。唯一可能なヤジニャは、サンキールタナ・ヤジニャ(聖なる御名の唱和)だけです。
Yajñaiḥ saṅkīrtana-prāyair yajanti hi su-medhasaḥ(シュリーマド・バーガヴァタム11.5.32)ですから、このクリシュナ意識運動が世界中で真剣に受け入れられ、サンキールタナ・ヤジニャが行われれば、すべてがただちに調整され、整います。すべてがです。しかし、これらの愚か者たちはそれを受け入れようとはしません。彼らは苦しむことになるのです。
それ以外の方法はありません。すべての正しい指針はすでに示されています。人々はこの正しく誤りのない導きから恩恵を受けるべきであり、そうすれば幸せになれます。
私たちは、人々が正気に戻り、このクリシュナ意識運動を活用して幸福になるようにと、この運動を紹介しようとしているのです。