シュリーマド・バーガヴァタムの記述:
dvitīyaṁ tu bhavāyāsya
rasātala-gatāṁ mahīm
uddhariṣyann upādatta
yajñeśaḥ saukaraṁ vapuḥ
[sb 1.3.7]
翻訳:すべての儀式の結果を楽しむ最高の人物は、猪の化身(2番目の化身)の姿となって、地球
を繁栄させるために宇宙の⻩泉(よみ)の世界からすくいあげた。
解説:この節は、人格主神の各化身がおこなう特定の使命について記述しています。使命を持たな
い化身は存在せず、その使命はつねに俗世界を超越しています。どのような生き物にも実行で
きない言葉かりです。この猪の化身の使命は、地球を⻩泉の世界という不潔な領域から地球を
すくいあげることにありました。猪はよく汚いところから物を取りだしますが、あらゆる力を
持つ人格主神は、地球をそのような不潔な領域に隠したアスラたちに対抗してこの驚嘆すべき神業を見せました。人格主神に不可能なことはなく、たとえ主が猪の姿になっても献愛者にと
ってはつねに崇高な行動であり、崇拝の対象であることに変わりありません。
Varāha-dvadaśīで行われたPrabhupādaの講話から抜粋:
Pralaya-payodhi-jale-dhṛtavān asi vedam, vihita-vahitra-caritram akhedam。今日は、主クリシュナが猪の姿でご降誕された日です。主は、ガルボーダカ海(Garbhodaka Ocean)の水に沈んでしまった地球を持ち上げられました。私たちが目にしている宇宙は、その半分しか見えておらず、もう半分は水で満たされています。その水の中には、ガルボーダカシャーイー・ヴィシュヌ(Garbhodakaśāyī Viṣṇu)が横たわっておられます。
ある時、悪魔ヒラニヤークシャ(Hiraṇyākṣa)がこの地球をその水の中へ押し込めました。しかし、主クリシュナは猪の姿をとって現れ、地球を水の中から救い出されました。今日は、その吉祥なるヴァラーハ・ドヴァーダシー(Varāha-dvādaśī)の日です。これはヴァラーハ・ドヴァーダシー(Varāha-dvādaśīと呼ばれます。ですから、この神聖な日に、この宇宙の中に現れた主の様々な化身を讃え、賛美の歌を捧げるのがふさわしいでしょう。
主はその牙で地球を救い、牙の上に全世界を載せられました。その姿がどれほど壮大であったか、私たちは想像することしかできません。その時の地球は、まるで月面に模様があるように、主の牙の上に小さく映っていたといいます。
本日はVarāha-dvādaśī、KṛṣṇaがVarāha(イノシシ)の化身としてご降誕された日です。Keśava dhṛta-śūkara-rūpa jaya jagadīśa hare。
rāmādi-mūrtiṣu kalā-niyamena tiṣṭhan
nānāvatāram akarod bhuvaneṣu kintu
kṛṣṇaḥ svayaṁ samabhavat paramaḥ pumān yo
govindam ādi-puruṣaṁ tam ahaṁ bhajāmi
[Bs. 5.39]
Kṛṣṇa、Govinda、ādi-puruṣa、すべての源である元初の人格神は、さまざまな姿を取られます。特に「ラーマ(Rāmādi-murtiṣu)」の姿として、三つのラーマ――パラシュラーマ、バララーマ、そしてダシャラティーマが挙げられます。「ラーマ」とは歓楽を意味します。ですから、クリシュナの歓楽…
クリシュナがヴァラーハ(イノシシ)として顕現されたからといって、それが苦しみを意味するわけではありません。すべては「アーナンダ・チンマヤ・ラサ・プラティバーヴィタービヒ(ānanda-cinmaya-rasa-pratibhāvitābhiḥ)」――すなわち精神的な至福に満ちています。時には偉い人が馬になることもあります。ここで、イギリスの偉大な首相であったグラッドストン氏に関する面白い逸話があります。
ある日、重要人物がグラッドストン氏に面会しにやって来ました。しかし、執事は「首相は現在お忙しいので、お待ちください」と伝えました。彼は待ちました。そうして一時間が経過したので、好奇心が強くなったんです。「私を1時間も待たせて、一体何をしておられるのか?」を確かめたかったので、彼は少しドアを開けました。、すると、首相が孫を背中に乗せ、馬になりきって遊んでいる姿を目にしました。そして大切な客人は1時間待っています。これが歓楽です。首相は馬ではありませんが、孫を背中に乗せ、馬のように演じるのを楽しんでいます。そして孫は「ヒヒーン!」と馬を操るように言い、首相は楽しそうに応じていました。ですから同じことです。グラッドストン氏が孫の馬になったからと言って、彼は馬ではありません。彼は楽しんでいたのです。同様に、「ケーシャヴァ・ドリタ・シューカラ・ルーパ又はケーシャヴァ・ドリタ・ヴァラーハ・ルーパ」(keśava dhṛta-śūkara-rūpa or kesava dhṛta-varāha-rūpa)だからといって、クリシュナが本当にイノシシであるとか、ワニであるとか、そういう意味ではないです。いいえ、クリシュナは何にでもなれますが、それはカルマによるものではありません。私たちが動物の姿を取るとき、それはカルマや罰の結果です。たとえば、現在は人間として生きていますが、来世ではカルマによってワニになるかもしれません。たとえば、ホノルルの海辺では、多くの若者が波乗りを楽しんでいます。もし彼らがその生涯をサーフィンに夢中になって過ごし、死の瞬間に「波の中で泳いでいたい」と強く思ったとします。そうすると、そうすれば、クリシュナは水生生物になる機会を与えてくれるでしょう。簡単に水の中にとどまることができます。これは自然の法則です。yaṁ yaṁ vāpi smaran loke tyajaty ante kalevaram【バガヴァッド・ギーター 8.6】という教えの通りです。
したがって、私たちが動物の姿を取るのはカルマの結果ですが、クリシュナがヴァラーハ(猪)やクールマ(亀)として顕現するのは、カルマによるものではなく、ただ楽しみのためです。Na māṁ karmāṇi limpanti【バガヴァッド・ギーター 4.14】――クリシュナは「私は活動によって縛られない」とおっしゃっています。彼はカルマの結果に左右されることなく、すべてを自らの意志で行われるのです。私たちはクリシュナの一部であり、本質的には同じ性質を持っています。クリシュナが楽しみを求めるように、私たちも楽しみを求めます。精神世界では、私たちは妨げられることなく、クリシュナとともに楽しむことができるのです。
クリシュナには無数のリーラー(神の遊戯)や活動があります。クリシュナとその活動は別のものではなく、クリシュナは絶対的存在です。このような特別な機会に、私たちはクリシュナのリーラーについて聞くことができ、それによって恩恵を受けるのです。そのため、時にはミーナ・シャリーラ(魚の化身)、ヴァラーハ・シャリーラ(猪の化身)、クールマ・シャリーラ(亀の化身)として現れます。rāmādi-mūrtiṣu-kalā niyamena―ラーマやその他の無数の化身が存在します。クリシュナの化身は無限であり、advaitam acyutam anādim ananta-rūpam【ブラフマ・サンヒター 5.33】とあるように、それは川の波のように絶えず続いています。
ですから、śravaṇaṁ kīrtanaṁ viṣṇoḥ【シュリーマド・バーガヴァタム 7.5.23】――ヴィシュヌのリーラーを聞く機会を得るなら、それは計り知れない恩恵をもたらします。しかし、もし私たちがクリシュナの非人格的な側面(ニラカーラ・ブラフマン)にのみ執着するなら、何を聞くのでしょうか?
そのため、マーヤーヴァーディ(非人格主義者)たちは最終的に精神的な道から転落してしまいます。彼らはクリシュナの非人格的な面だけを重視し、「ブラフマン、ブラフマン、私はブラフマン」と繰り返します。しかし、それがどれほど続けられるでしょうか?やがて退屈になってしまいます。
一方で、クリシュナの人格的な活動(リーラー)には、新しいもの、さらに無数の多様なものが存在します。こうして私たちはクリシュナの物語を聞き続けることができ、それに深く引き込まれます。しかし、もし非人格的なブラフマンのみを追求するなら、それは単調になり、最終的には行き詰まるでしょう。
なぜなら、私たちは本質的にアーナンダ(至福)を求める存在だからです。非人格的な側面には、そのアーナンダがありません。たとえば、どれほど素晴らしい飛行機に乗っても、ただ空を飛び続けるだけではつまらなくなります。海の上を何ヶ月も漂流し続ければ、誰もが気分を害するでしょう。
私たちは多様な喜び(ヴァラエティ)を求めています。それはクリシュナも同じです。クリシュナは無数の喜びを生み出され、それを楽しんでいます。私たちがクリシュナとともにそれを味わうなら、精神的な世界で永遠に尽きることのない喜びを享受することができます。それこそが人生の究極の成功なのです。
参考リンク:
https://prabhupadavani.org/transcriptions/lord-var%C4%81has-appearance-day-lecture-das%C4%81vat%C4%81ra-stotra-purport/
https://prabhupadavani.org/transcriptions/770131vabhu/