主クリシュナの純粋な献愛者は、常に完全なクリシュナ意識の中にいます。
バクティヨガで完璧になると、思考も浄化され、物質的な欲求もなくなる。
献愛者は欲望がなくなるわけではなく、欲望をクリシュナ意識に組み合わせるのです。
非常に聡明でない限り、クリシュナ意識を受け入れることはできないと言われています。
Krsna yei bhaje sei bada catura
あるいはクリシュナの献愛者なら、とても頭がいいにちがいないということも理解できる。
死石のように欲望のないものになることは、献身者の目標ではありません。なぜなら、私たちの体にも、欲望を止める代わりに、それをクリシュナの奉仕に利用することができるからです。
クリシュナの純粋な献愛者であるプララーダ·マハラジャは、権威はナルシムハ·デヴァに対する彼の欲望を説明しています。それについて読んでみましょう。
第43節
naivodvije para duratyaya-vaitaraṇyās
tvad-vīrya-gāyana-mahāmṛta-magna-cittaḥ
śoce tato vimukha-cetasa indriyārtha-
māyā-sukhāya bharam udvahato vimūḍhān
(翻訳)おお、偉大な人物の最高の御方。どこにいてもあなた様の栄光と活動を考えることに完全に没頭していますから、私は物質存在を全く恐れていません。私の関心は、物質的な幸福と家族と社会と国を維持するために苦労して計画を練っている愚か者や悪徳者のことだけです。私はただ愛情で彼らのことを案じているのです。
(解説)世界中の人々は、物質界の不幸を解決するために大きな計画を立てるが、現在も過去も未来も、このことは真実である。そうであるにも関わらず、政治的に社会的にそして文化的に詳細に計画を立てているのに、ここでは彼ら全員がヴィムーダ ―― 愚か者として説明されている。物質界は『バガヴァド・ギーター』で、duhkhalayam asasvatam ―― つまり一時的で悲惨である ―― と説明されているが、このような愚か者は物質自然がその独自の方法の取り計らいによって、どのように全てが活動するのかを知らなくて、物質界をスカーラヤム、つまり幸せな場所に変えようとしている。
prakṛteḥ kriyamāṇāni
guṇaiḥ karmāṇi sarvaśaḥ
ahańkāra-vimūḍhātmā
kartāham iti manyate
「偽の自我に左右され困惑した魂は、諸活動の行為者は自分自身であり、動機も目的も自分固有のものであると錯覚する。本当は物質自然の三様式によるものであるにもかかわらす。」(『バガヴァド・ギーター』3章27節)
悪魔を罰するために、個人としてドゥルガーとして知られている物質自然の計画がある。。神を信じないアスラたちは存在するために苦闘しているが、ドゥルガー女神の直接攻撃を受けている。そして、悪魔たちを罰するために10本の手には異なる型の武器を持っている。彼女はライオンのような運搬人、つまり激情と無知の様式によって運ばれている。全ての者は激情と無知の様式を通して非常に懸命になって苦闘し物質自然を征服しなければならないが、最後は物質自然の法則によって克服される。
ヴァイタラニーとして知られている川が物質界と精神界の間にあって、反対側、つまり精神界に辿り着くためにはこの川を渡らなければならない。『バガヴァド・ギーター』(7章14節)で主はおっしゃっている。daivi hy esa gunamayi mama maya duratyaya:「物質自然の三様式から構成されている私のこの神聖なるエネルギーに打ち勝つことはたいそう難しい。」同じ言葉、duratyayaの意味は「たいそう難しい」という意味であり、ここでその言葉が使われている。ゆえに、至上主の御慈悲がなければ、物質自然の厳格な法則の限界を超えることはできない。そうであるが、全ての物質主義者は計画を立てて挫折しても、この物質界で幸せになるために何度も挑戦する。ゆえに彼らはヴィムーダ ―― 一流の愚か者として説明されている。プラフラーダ・マハーラージャは物質界にいたけれども、完全にクリシュナ意識だったので、全く不幸せではなかった。主に奉仕しようと頑張っているクリシュナ意識の人たちは不幸せではないが、一方、クリシュナ意識の財産を持っていなくて存在のためにもがいている人は、愚かであるだけでなく、本当に不幸せでもある。プラフラーダ・マハーラージャは幸せであり同時に不幸せであった。クリシュナ意識だったので幸せと超越的な喜びを感じたが、この物質界で幸せになるために苦心して計画を立てている愚か者や悪徳者に対して、大きな不幸せを感じていた。
第44節
prāyeṇa deva munayaḥ sva-vimukti-kāmā
maunaḿ caranti vijane na parārtha-niṣṭhāḥ
naitān vihāya kṛpaṇān vimumukṣa eko
nānyaḿ tvad asya śaraṇaḿ bhramato 'nupaśye
(翻訳)私の愛する主ヌリシムハデヴァ。本当に多くの聖者がいますが、彼らは自分の救済に興味があるだけだと私は想っています。大都市や町には関心がなく、沈黙の誓い[モナ・ヴラタ]を立てて瞑想するためにヒマラヤや森の中に行きます。他人を救うことに興味がないのです。しかしながら私は、この可哀相な愚か者と悪徳者を見棄てて、私だけが救われたいと思いません。クリシュナ意識がなければ、あなた様の蓮華の御足の保護を受けなければ、幸せにはなれません。ですから、彼らをあなた様の蓮華の御足に保護の下に戻したいと願っています。
(解説)これは主の純粋な献身者、ヴァイシュナヴァの決意である。自分自身に何の問題がなくても、たとえこの物質界に留まる必要がなくても、クリシュナ意識でいることが唯一の仕事だからである。ゆえに、プラフラーダ・マハーラージャは、naivodvije para duratyaya-vaitaranyah、「おお、偉大な人物の最高者。私は物質存在を全く恐れていません。」と言った。純粋な献身者は人生のどのような状況にあっても決して不幸ではない。これは『シュリーマド・バーガヴァタム』(6巻17章28節)で確証されている:
nārāyaṇa-parāḥ sarve na kutaścana bibhyati
svargāpavarga-narakeṣv api tulyārtha-darśinaḥ
「唯一、至上人格主神、ナーラーヤナの奉仕に従事している献身者だけが、人生のどんな状況も恐れません。献身者には、天国の惑星も解脱も地獄の惑星も、全ては同じなのです。なぜなら、そのような献身者は主の奉仕にだけしか興味がないからです。」
献身者は天国の惑星にも地獄の惑星にも住まず、クリシュナと一緒に精神界に住んでいるので、献身者にとって、天国の惑星に位置することも地獄の惑星にいることも同じである。献身者の成功の秘訣をカルミーたちやギャーニーたちは理解しない。ゆえに、カルミーは物質的適応によって幸せになろうとし、ギャーニーは主と一体になることによって幸せになりたいと思っている。献身者はそのような関心はない。いわゆるヒマラヤ山脈での瞑想には興味がない。むしろ、世界の最も忙しい場所、つまり人々にクリシュナ意識を教える場所に献身者の関心はある。クリシュナ意識運動はこの目的で始められた。自分があらゆる種類の愚かな物質的活動に従事していながら、静かな場所で瞑想することで自分が発達していることを見せたり、いわゆる超越的瞑想を自慢したりするようなことを弊協会は教えない。プラフラーダ・マハーラージャのようなヴァイシュナヴァはそのような虚勢を張ったような精神的発達には関心がない。むしろ、ヴァイシュナヴァが幸せになる唯一の方法が人々をクリシュナ意識で啓発することであるから、そちらの方に関心がある。プラフラーダ・マハーラージャは、nanyam tvad asya saranam bhramato ‘nupasye、「クリシュナ意識がなければ、あなた様の蓮華の御足の保護がなければ、誰も幸せになれないことを私は知っています。」とはっきり言っている。何度生まれ変わっても、この宇宙の中をさ迷っているが、献身者、つまりシュリー・チャイタニャ・マハープラブの召使いの慈悲によって、クリシュナ意識への手がかりをもらい、この世界で幸せになるだけでなく、神の家に戻ることができる。それが人生の真の目標である。クリシュナ意識運動のメンバーたちは、瞑想ショーを見せるだけのいわゆるヒマラヤ山脈での瞑想には全く興味がないし、都市にいて、ヨーガや瞑想の学校をたくさん開くことにも関心がない。むしろ、クリシュナ意識運動の全てのメンバーは『バガヴァド・ギーター、あるがままの詩』の教えと主チャイタニャの教えを人々に確信させようと、家から家を訪問することに関心がある。それがハレー・クリシュナ運動の目的であるクリシュナ意識運動のメンバーはクリシュナがいらっしゃらなければ幸せになることができないことを完全に確信していなければならない。このように、クリシュナ意識の人はあらゆる種類の偽の精神主義者、超越主義者、瞑想家、一元論者、哲学者、博愛主義者を避ける。