バクティヨーガ-経典による完璧な定義
一般的に、バクティヨーガは現在使用されている非常に人気のある言葉であり、我々は様々な情報原からそれについての多くの定義を聞くことができます。しかし、どの定義が完璧とみなされるべきなのでしょうか?
ほとんどの定義が完璧に見えるわけではなく、何度も勘違いしてしまう。
ヨガやバクティの情報は、バガヴァッド・ギーターやシュリマッド・バガヴァタムなど、古代のヴェーダ聖典から得たものです。
バクティヨーガの完璧な説明は、シュリマッド・バガヴァタムから得ることができます。スリラ・プラブパダは、そのパーポー トの中で非常にうまく説明されています。
バクティヨーガは、シュリマッド・バガヴァタムで非常にうまく説明されています。
バクティヨーガとは - 正確な定義は下記の通り
シュリマッド・バガヴァタム 1.5.35
yad atra kriyate karma
bhagavat-paritoṣaṇam
jnānaṁ yat tad adhīnaṁ hi
bhakti-yoga-samanvitam
現世で主の使命を実現させるためにすることはすべて、バクティ・ヨーガ、すなわち主への 崇高な愛情奉仕と呼ばれ、一般的に知識と呼ばれているものはその奉仕に付随する要素となる。
要旨解説
経典がしめすとおりに果報的活動をすれば、精神的悟りに必要な超越的知識を完璧に得らる、という考えが一般的に、そして広く知られています。またバクティ・ヨーガを、別の形の カルマであると考えている人たちがいます。しかし、じつはバクティ・ヨーガはカルマもギャ ーナも超えています。バクティ・ヨーガはギャーナとカルマからは独立していますが、ギャー ナとカルマはバクティ・ヨーガに依存しています。シュリー・ナーラダがヴャーサに助言した ように、このクリヤー・ヨーガは主を満足させることが原則であるため、特に勧められていま す。主は我が子である生命体たちが三重苦に苦しむことのないよう願っています。すべての子 どもが自分のもとに戻り、共に住んでほしいと思っていますが、神のもとに帰るためには、物 質的けがれを捨てて清い心を持たなくてはなりません。ですから、ある行為が主を満足させる ために為されれば、その行為者は物質的けがれから徐々に清められていきます。清められると は、精神的な知識を得る、ということです。ですから、知識はカルマ、すなわち主のために為 された活動によって得られるものです。それ以外の知識は、バクティ・ヨーガという主の満足 とはかかわりがないため、神のもとには導いてくれません。つまりそのような知識は、この章 の第12節でnaiñkarmyam apy acyuta-bhäva-varjitam(ナイシュカルミャンム アピ アチュタ・バハーヴ ァ・ヴァルジタンム)と説明されているように、解放でさえも授けてはくれません。結論として、特 に主の神々しい栄光について聞いたり唱えたりしながら主に純粋に仕えている献愛者は、『バ ガヴァッド・ギーター』が確証しているように、神聖な恩寵のおかげで同時に精神的な悟りも 授かっている、ということが言えます。
プラーナやマハーバーラタなど、すべてのヴェーダ文献の著者である - ヴィヤーサ・デヴァのバクティヨガ体験記. 完璧なヨギがバクティヨガを行ったところ、次のような結果が得られた。
SB 1..7.4
bhakti-yogena manasi
samyak praṇihite 'male
apaśyat puruṣaṁ pūrṇaṁ
māyāṁ ca tad-apāśrayam
こうしてヴャーサデーヴァは、物質的意識をいっさい持たずに、心を献愛奉仕 [バクテ ィ・ヨーガ] に結びつけて完全に瞑想した結果、絶対人格主神を見た。主が自ら完全に支配 している外的力とともに。
要旨解説
絶対真理者を完璧に見るためには、献愛奉仕という連結させる方法に従わなくてはなり ません。『バガヴァッド・ギーター』もそう確証しています。献愛奉仕をしてこそ、絶対 真理・人格主神を悟ることができ、そのような完璧な知識のある人が神の国に入ります。 絶対真理者を、姿のないブラフマンや局所的存在のパラマートマーとして不完全に理解し ている状態では、神の国に入ることは許されません。シュリー・ナーラダはシュリーラ・ ヴャーサデーヴァに、人格主神とその活動だけに心を集中させるよう助言しました。シュ リーラ・ヴャーサデーヴァはブラフマンの光に関心はありません。最終的な悟りではない からです。究極の悟りは人格主神であり、それは『バガヴァッド・ギーター』(第7章・ 第19節)で、väsudevaù sarvam iti(ヴァースデーヴァハ サルヴァンム イティ)と確証されていると おりです。ウパニシャッドでも、「ヴァースデーヴァ・人格主神は姿のないブラフマンと いう金色に輝くhiraëmayena pätreëa(ヒランマイェーナ パートゥレーナ)のヴェールで覆われて おり、そのヴェールが主の慈悲で取りのぞかれるとき、絶対者のほんとうの顔を見ること ができる」と述べられています。この節で、絶対者はプルシャ(puruña)「人物」と表現 5 されています。絶対人格主神は数多くのヴェーダ経典のなかで述べられており、『バガヴ ァッド・ギーター』もそのプルシャを「永遠で根源の人物」と断言しています。絶対人格 主神は完璧な人物なのです。至高の人物はさまざまな力を持ち、なかでも内的・外的・中 間の力が重要です。この節は外的力について述べており、これからその力の働きについて 説明がなされ、その本質が明確にされていきます。内的力、月光が月とともにあるように、 絶対者とともにあります。外的力は、生命体を無知の暗闇に縛りつけることから「暗闇」 にたとえられます。この節のapäçrayam(アパーシュラヤンム)は、主のこの力完全に支配され ていることをしめしています。内的力あるいは優性の力もマーヤー(mäyä)と呼ばれるこ とがありますが、これは精神的なマーヤー、つまり絶対的世界にある力です。この内的力 に身をゆだねれば、無知の暗闇は跡形もなく消えていきます。そして、法悦境にいるアー トマラーマ(ätmäräma)の人々でさえ、このマーヤー・内的力に身をゆだねます。献愛奉 仕(バクティ・ヨーガ)は内的力に支えられていますから、劣性の力・物質の力が入りこ む余地はありません。精神的な光のなかに暗闇が存在しないのと同じです。内的力は、非 人格ブラフマンの悟りによる精神的至福さえも超えています。『バガヴァッド・ギーター』 は、「非人格ブラフマンの光は、絶対人格主神シュリー・クリシュナの体から発散されて いる光である」と言っています。パラマ・プルシャ(parama-puruña)は、シュリー・ク リシュナ以外にいるはずがなく、それはこれからのシュローカ(節)で追って説明されて いきます。
バクティヨーガはあらゆる種類の人々に推奨されており、ヨガの形が違うというようなものではありません。 一般的に他のすべてのヨガは、バクティ・ヨガの究極の実践のために初心者を訓練するためのものです。
バクティヨーガを完璧に行うことで得られる結果は、ヴェーダの著者であるスリラ・ヴィヤーサ・デーヴァが行ったもので、彼は神格の最高人格であるクリシュナを見ることができたのですから。
ここでは、最も信頼性の高い『シュリマッド・バガヴァタム』から、バクティヨーガの説明をもう一つ紹介します。
SB 2.3.10
akāmaḥ sarva-kāmo vā
mokṣa-kāma udāra-dhīḥ
tīvreṇa bhakti-yogena
yajeta puruṣaṁ param
物欲をすべて満たしたいと思っていようが、物欲がまったくなかろうが、あるいは解 放を求めていようが、広い知性を持つ者は必ず至高の全体者・人格主神を崇拝しなくて はならない。 要旨解説 最高人格主神、主シュリー・クリシュナは、『バガヴァッド・ギーター』でpuruñottama (プルショーッタマ)・最高人格者と表現されています。非人格論者が主の体から出ている光・ ブラフマジョーティのなかに入りたいと望んでも、それを叶えるのはほかならぬ主です。 ブラフマジョーティと主は離れているわけではありません。太陽の光が太陽本体と離れて 存在していないのと同じです。ですから、至上の非人格的ブラフマジョーティに入りたが っている人でも、『シュリーマド・バーガヴァタム』がここで勧めているように、バクテ ィ・ヨーガで主を崇拝しなくてはなりません。この節では、完全な完成を手にする方法と してとくにバクティ・ヨーガが勧められています。前の章では、バクティ・ヨーガがカル マ・ヨーガとギャーナ・ヨーガの究極目標であると言われましたが、この章でも、バクテ ィ・ヨーガはさまざまな半神を崇拝する多様な方法の究極目標であることが強調されてい ます。自己を悟るもっとも高い方法だから勧められているのです。ですから、だれでもバ クティ・ヨーガを真剣に実践しなくてはなりません。物質的な楽しみや束縛からの解放を 望んでいるとしても。 Akämaù(アカーマハ)は、物質的な望みを持たない者、という意味です。生命体は、至高 の全体者「puruñaà pürëam(プルシャンム プールナンム)」の部分体ですから(体の一部分の ように)、もともと至高の生命体・完全体に使える機能を自然にそなえています。ですか ら、「無欲」とは、石のようになにもしなくなるのではなく、自分のほんとうの立場を意 識し、至高主の満足だけを望むようになる、ということです。シュリーラ・ジーヴァ・ゴ ー ス ヴ ァ ー ミ ー は 、 自 著 『 サ ン ダ ル バ 』 で 、 そ の 無 欲 の 境 地 を bhajanéyaparama-puruña-sukha-mätra-sva-sukhatvam(バハジャニーヤ・パラマ・プルシャ・スカハ・マートゥラ・ スヴァ・スカハトゥヴァンム)と説明しています。これは、「至高主の幸せをみずから体験し、そ の体験をとおして自分も幸せになる」、という意味です。生命体のこの本能は物質界の条 件づけられた状態でも現われ、未発達の知性しかない愚かな人たちが、利他主義、博愛主 義、社会主義、共産主義などを唱える様子に見ることができます。通俗な世界で見られる 社会・地域社会・家族・国・人類のための善行は、「至高主の幸福をとおして自分も幸福 になる」という純粋な生命体の本来の感情が部分的に現われているのです。その優れた感 情は、主を幸せにすることしか考えていないヴラジャブーミの乙女たちが示しています。 見返りなど思わずに主を愛していましたが、この思いこそが、akämaù(アカーマハ)の特質の 完璧な現われです。カーマの特質、すなわち自分の満足を求めるきもちは、物質界で完全 に現われていますが、アカーマの特質は精神界で完全に現われています。 主と一つになる、あるいはブラフマジョーティと融合するという考え方は、それが物質 的苦しみから救われたい一心からの望みであれば、それもカーマの特質の現われです。純 粋な献愛者は、解脱を達成すれば生活の苦しみからも解放される、とも思いません。よく 言われる「解放の境地」さえ望まず、主を満足させることだけ考えています。アルジュナ はカーマの特質に惑わされていたので、クルクシェートラの戦場で戦うことをためらって いましたが、「親族を救う、そして自分も満足する」と思っていたからです。しかし、純 粋な献愛者でしたから、主の教えどおりに戦うことにしました。まちがいに気づき、自分 の満足を犠牲にしても主を満足させるのがなによりも大切な自分の義務である、と悟った からです。そしてアカーマになりました。それが完璧な生命体の完璧な境地です。 Udära-dhéù(ウダーラ・ディーヒ)とは、広い視野のある人のことです。物質的な楽しみを求 める人たちはちっぽけな半神を崇拝しますが、その程度の知性は『バガヴァッド・ギータ ー』(第7章・第20節)で、håta jïäna(フリタ ギャーナ)「分別を失った者の知性」と非難 されています。半神を崇拝しても、至高主の許しがなければ結果はいっさい得られません。 ですから広い視野のある人は、物質的な望みを叶えるにしても、それを授ける究極の権威 者は主であることを知っています。だからこそ広い視野を持つ人は、物質的な楽しみや解 放への望みを持っているとしても、主を直接崇拝しなくてはなりません。そしてだれであ っても、アカーマであろうとサカーマであろうと、そしてモークシャ・カーマだとしても、 できるかぎりの便宜をはかって主を崇拝すべきです。これは、バクティ・ヨーガはカルマ やギャーナにかかわることなく実践できる、ということも含まれています。直射日光はそ の強力さゆえにtévra(ティールヴァ)と呼ばれますが、同じように、聞く、唱えるというバク ティ・ヨーガはほかのなにものとも混ぜる必要がなく、心にどんな動機があっても、だれ にでも実践できます。
バクティの本当の意味は、神に対する愛ある献身的な奉仕です。
SB 1.2.6
sa vai puṁsāṁ paro dharmo
yato bhaktir adhokṣaje
ahaituky apratihatā
yayātmā suprasīdati
全人類にとっての最高の職業・ダルマ(dharma)とは、崇高な主に愛情をこめた奉仕を達成できる手段のことである。そのような献愛奉仕は、不純な動機を持たずに為すべきであり、なにごとにも妨げられずに自己を完全に満足させることができる。
要旨解説
この節のなかで、シュリー・スータ・ゴースヴァーミーは、ナイミシャーラニャの聖者たちの最初の質問に答えています。聖者たちは、啓示経典全体を要約し、そして最重要部分をしめすよう求めました。道を踏みはずした人々や一般の人々がそれらをかんたんに受けいれらるように、との思いだったのです。ヴェーダは人類に対して2種類の本務を定めています。一つはプラヴリッティ・マールガ(pravåtti-märga)「感覚の楽しみの生涯」で、もう一つは、ニヴリッティ・マールガ(nivåtti-märga)「放棄の生涯」です。快楽だけの生き方は劣り、至高の原因である人物のために自らを犠牲にする生き方は優れています。生命体の物質界での生活は、真の生活が病に冒された状態です。自分本来の真の生活ではなく、病に冒されてしまった生活をしているのです。真の生活とは精神的な存在、すなわちブラフマ・ブータ(brahma-bhüta)の存在であり、永遠で至福と知識に満たされた生活です。物質存在は一時的でまぼろしにすぎず、苦しみに満ちています。幸福は一切ありません。人々は苦しみから逃れようとむなしい努力をつづけ、苦しみが途切れた時が幸福だと勘違いしています。ですから、一時的で、苦しみと幻想に包まれた物質的快楽中心の生き方は劣っています。しかし、至高主への献愛奉仕は永遠で幸福感に満たされ、修練する人をすべてに目覚めた生活に導いてくれますから、優れた質をそなえた使命とされています。この生き方は、劣性の質にかかわることで穢されることがあります。たとえば、物質的な利益を得るために献愛奉仕をすれば、放棄の道の妨げになることはまちがいありません。究極の善のために放棄心や自制心を養う努力は、病に冒された生活での楽しみよりも確かに優れています。病に冒された楽しみは、病状を悪化させ、⻑引かせるだけです。ですから主への献愛奉仕は、純粋無垢、すなわち物質的な楽しみに対する望みが一切ない状態でなくてはなりません。だからこそ、不要な望み、果報的活動、哲学的推論に穢されていない主への献愛奉仕という優れた道を受けいれなくてはなりません。それだけが、主への奉仕という永遠の心の安らぎに私たちを導いてくれるのです。
私は意図的にダルマということばを「本務」と表現しています。それはダルマには「自分の存在を支えるもの」という語源があるからです。生物の存在を支えるのは、自らの行動と至高主・主クリシュナとの永遠な絆との調和です。クリシュナは生命体の中軸で、すべてを魅了する生命体であり、他の全生命体(あるいは永遠の姿)のなかの永遠な姿である方です。どの生命体も、精神的存在において自分本来の永遠な姿を持っており、クリシュナはそのようなかれらにとって永遠な魅力です。クリシュナは完全な全体者であり、他一切はクリシュナの部分体です。その関係は、奉仕をする者と奉仕を受ける者として説明できます。それは超越的で、物質界にある私たちの経験とはまったく次元が違います。この「奉仕をする者と奉仕を受ける者」との関係は、親密な関係におけるもっとも心満たされた境地であり、献愛奉仕を高めるほどに理解できるようになります。だれもが、たとえいま物質存在に縛られていようとも、主に崇高な愛情奉仕をすべきです。献愛奉仕こそが、徐々に私たちに真の生活の手がかりを与え、このうえない満足感を提供してくれるのです。
バクティヨガを真摯に行う人がいれば、すぐに結果が出ます。
SB 1.2.7
vāsudeve bhagavati
bhakti-yogaḥ prayojitaḥ
janayaty āśu vairāgyaṁ
jnānaṁ ca yad ahaitukam
人格主神、シュリー・クリシュナに献愛奉仕をすることで、すぐにいわれのない知識をさず かり、物質界に対する執着心が消えさっていく。
要旨解説
至高主・主シュリー・クリシュナへの献愛奉仕は物質的な感情で行なわれている、と誤解し ている人々は、経典が勧めているのは儀式・慈善・苦行・知識・神秘的な力・超越的な悟りを 得るための方法なのだ、と異議を唱えるかもしれません。バクティ・主への献愛奉仕は、高尚 な活動ができない者のためにある、と考えているのです。一般的にバクティの崇拝は、シュー ドラ、ヴァイシャ、それほど知性の高くない女性のためにあるとされています。しかし、それ は事実ではありません。バクティ・ヨーガはあらゆる崇高な活動の頂点にあるため、崇高で、 かんたんに修練できる手段です。至高主と結ばれたいと真剣に願う純粋な献愛者には崇高で、 バクティという家の入り口に立つ初心者にはかんたんな方法です。至高主・シュリー・クリシ ュナとの絆を築くことは偉大な科学であり、シュードラ、ヴァイシャ、女性、あるいは低いシュードラよりもさらに低い人々を含む万⺠に開かれた方法です。ならば、高尚なブラーフマナ や自己を悟った偉大な王たちは言うまでもありません。純粋で科学的なバクティ・ヨーガを実 践すれば、儀式・慈善・苦行・他の高度な活動はおのずと達成されるものです。 12 知識と無執着は、超越的な悟りの道に用意された大切な2つの原則です。精神的な道は、物 質・精神すべての完璧な知識へと私たちを導き、その完璧な知識をさずかれば、物質的な感情 に無執着になり、精神的な活動に執着するようになります。知識に乏しい人は「物質的な物事 への無執着」と聞くと、何もしない状態を考えがちですが、そうではありません。ナイシュカ ルマ(naiñkarma)は、良い結果や悪い結果を作りだす行動をしない、という意味です。「否定」 と言っても、「肯定」を否定するわけではありません。「不必要な事」を否定すると言っても、「必要な事」まで否定するわけではありません。同じように、物質的な姿に無執着になっても、 真実の姿を否定したわけではありません。バクティ崇拝法は、真実の姿を悟るためにあります。 その姿を悟れば否定的な姿はおのずと放棄されるものです。ですから、真実の姿に対して真実 の奉仕をとおしてバクティ・ヨーガを高めていけば、劣った物事に無執着になり、優れた物事 に執着するようになります。同じように、バクティの方法は生命体のもっとも気高い本分です から、物質的な快楽に無執着になる道に導いてくれます。それが純粋な献愛者の印です。献愛 者は愚かではありませんし、劣った物事のために働いたり物質的な価値観を持っていたりする わけでもありません。その境地は、机上の空論で達成できるものではありません。全能者の恩 寵があってこそ実現するものです。「純粋な献愛者は知識や無執着心という優れた気質をすべて そなえているが、知識や無執着心だけでバクティの原則に精通することはできない」。これが結 論です。バクティは、人類にとって最良の本務なのです。
In the above Shloka We can understand that bhakti yoga means the devotional service towards Krishna or Vasudeva.
上記の節では、バクティヨーガとはクリシュナやヴァスデーヴァに対する献身的な奉仕を意味すると理解できます。
誤解を解くー
Clearing Misconceptions - バクティヨーガはヒンズー教の宗教的実践であり、シヴァやガネーシャ、デヴィなどヒンズー教の神に仕えることも同じで、バクティヨガと呼ぶことができると考える人が時々います。
しかし、これは真実ではありません。上記の節から、バクティ・ヨーガとは、至高人格神であるクリシュナに対する愛の献身的な奉仕であると理解することができるのです。
自然の性質を超えて
Ch 14 TEXT 26
mam ca yo 'vyabhicarena
bhakti-yogena sevate
sa gunan samatityaitan
brahma-bhuyaya kalpate
訳 献愛奉仕に没頭し、どのような状況にあっても着実な者は、すぐに物質自然界の 様式を超越し、ブラフマンの境地に到達する。
要旨解説
要旨解説 この節は、アルジュナの三番目の質問に答えています。超越的な境地に到達 する方法とは、という問いです。先に説明されたように、物質界は物質自然界の様式という 魔力に動かされています。この様式に乱されてはなりません。意識をそのような活動に向け るのではなく、クリシュナ意識に向けるのです。クリシュナ意識はバクティ・ヨーガ、すな わち、いつもクリシュナのためにする行為です。これにはクリシュナだけではなく、ラーマ、 ナーラーヤナという主のさまざまな完全拡張体も含みます。主は無数の姿を持っています。 クリシュナのどの姿にでも仕えている人、あるいは主の完全拡張体に仕えている人は、超越 的な境地にいます。また、クリシュナの姿はどれも完全に超越的で、喜びと知識にあふれ、 永遠であることもよく心得ておかなくてはなりません。人格主神は全知全能で、超越的質を すべてそなえています。ですから、揺らぐことのない決意とともにクリシュナへの奉仕に、 あるいはクリシュナの完全拡張体への奉仕に励んでいれば、克服しがたい三様式をかんたん に乗り越えることができます。このことは第7章ですでに説明されました。クリシュナに身 をゆだねる人はすぐに三様式の影響を克服できます。クリシュナ意識にいる、献愛奉仕をす る、という意味は、クリシュナの持つ質を身につける、ということです。主は、「わたしの 質は永遠で、喜びと知識にあふれている」と言い、また金の粒は金鉱山の一部であるように、 生命体も至高者の部分体である、と言います。ですから、本来の精神的な境地にいる生命体 は、金と同じ質、すなわちクリシュナと同じ質をそなえています。そして個別性は存続しま す。でなければ、バクティ・ヨーガの意味はありません。バクティ・ヨーガとは、主がいる、 献愛者がいる、そして互いに愛情を交わす、という境地です。つまり、「二人」という個別 性が、最高人格主神と個々の魂のあいだにあるということです。さもなければ、バクティ・ ヨーガの意味はなくなります。また、主と同じ超越的な境地にいなければ至高主に仕えるこ とはできません。国王の臣下になるには、その資格が必要です。その資格とはブラフマンに なること、あるいは物質的なけがれすべてから解放された境地です。ヴェーダ経典では brahmaiva san brahmäpy etiと言われています。ブラフマンになれば至高のブラフマンに 到達することができます。これは、ブラフマンと質的に同じになることを意味しています。 ブラフマンの境地に到達しても、個々の魂としての、自分のブラフマンとしての永遠性を失 うわけではありません。
BG 9.32
māṁ hi pārtha vyapāśritya
ye ’pi syuḥ pāpa-yonayaḥ
striyo vaiśyās tathā śūdrās
`te ’pi yānti parāṁ gatim
プリターの子よ。わたしに身をゆだねる者は、女性、ヴァイシャ(商人)、シュ プリターの子よ。わたしに身をゆだねる者は、女性、ヴァイシャ(商人)、シュ ードラ(労働者)のような低い身分に生まれても、最高の目的地に到達することができ る。
要旨解説
この節で至高主が断言しているのは、献愛奉仕をする人々の階級に低い高 いの区別はない、という点です。社会通念ではそのような区分はあるかもしれませんが、主 への奉仕に区別はありません。だれでも至高の目的地に行く資格があるのです。『シュリー マド・バーガヴァタム』(第2編・第4章・第18節)では、チャンダーラ(犬を食べる者) という最下等の人間でも、純粋な献愛者とのふれあいで純粋になれる、と言われています
献愛奉仕と純粋な献愛者の導きには強い力があり、下等・高等という人間の区別には関係な 43 く、だれでもはじめることができます。無学な人でも純粋な献愛者に身をゆだねる人は、正 しい導きによって純粋になります。人間は物質自然界の様式に応じて、徳の様式(ブラーフ マナ)、激情の様式(クシャトリヤ・管理者)、激情と無知が混ざった様式(ヴァイシャ・ 商人)、無知の様式(シュードラ・労働者)に分けることができます。この分類にも属さな い人々をチャンダーラといい、罪な家庭に生まれます。一般的に、高い家庭に生まれた人は 罪な家庭に生まれた人とのつきあいを避けようとします。しかし、献愛奉仕には強い影響力 があり、純粋な献愛者は低い階級の人たちを人生の最高完成に導くことができます。これは、 クリシュナに身をゆだねる人だけができることです。この節の vyapäsritya(ヴャパーシュリテ ャ)という言葉がしめしているように、クリシュナに身も心もゆだねなくてはなりません。 それができてこそ、偉大なギャーニーやヨーギーをも凌ぐ境地に高められます。