ナラダとヴァイヤサの会話。ナラダとヴァイヤサの会話。
多くのヴェーダ文献を編纂しても、ヴィヤーサ・デーヴァは満足しなかった。
そこで彼は、教祖である "ナラダ・ムニ "にこう指示された。
Srimad bhagvatam 1.5から
第 9 節
ヤタハー ダハルマーダヤシュ チャールタハ
yathä dharmädayaç cärthä
ムニ・ヴァリャーヌキールティターハ
muni-varyänukértitäù
ナ タタハー ヴァースデーヴァッシャ
na tathä väsudevasya
マヒマー ヒ アヌヴァルニタハ
mahimä hy anuvarëitaù
偉大なる聖者よ。あなたは宗教上の活動から4つの原則まで、広範囲に記述してはいるもの
の、至高人格者・ヴァースデーヴァの栄光については述べていない。
要旨解説
シュリー・ナーラダからの機敏な診断が、即座に打ちだされました。ヴャーサデーヴァの落
胆の根本原因は、さまざまなプラーナを著してはいるものの、主の栄光について述べることを
意図的に避けていた点にあります。確かに、そして当然ヴャーサデーヴァは主(シュリー・ク
リシュナ)の栄光について説明はしていますが、宗教、経済発展、感覚満足、解放など対する
説明に比べると、充分な量ではありません。この4つの原則は、主への献愛奉仕の活動に比べ
ればはるかに劣っています。権威ある学者であるシュリー・ヴャーサデーヴァにもこの違いは
わかっていたはずです。にもかかわらず、主への献愛奉仕というよりすばらしい活動について
重点を置くことなく、妥当とは言えない物事のために貴重な時間を費やしてしまいました。失
望の原因はここにあります。このことから「主に献愛奉仕をしなければ、心の底から満たされ
ることはない」ということがわかります。『バガヴァッド・ギーター』でもこの事実について
明確に述べられています。
宗教を始めとする4つの原則の最後になる解放の境地に到達した人は、純粋な献愛奉仕をす
るようになります。これが自⼰の悟り、すなわちブラフマ・ブータ(brahma-bhüta)と呼ば
れる段階です(『シュリーマド・バーガヴァタム』第4編・第30章・第20節)。ブラフマ・ブ
ータの境地に達した人は心が満たされます。しかしその満足は、崇高な至福の始まりにすぎま
せん。相対的なこの物質界で、私たちは中立で平等な心になって前進しなくてはなりません。
この安定した境地を通過したあとに、主への超越的な愛情奉仕に立脚できるようになります。
これが、『バガヴァッド・ギーター』で説かれている人格主神の教えです。結論として、ナー
ラダはヴャーサデーヴァに対し、「ブラフマ・ブータの境地を維持し、超越的な悟りをさらに
高めるために、献愛奉仕の道について熱意をこめて繰りかえし説明すべきである」と勧めまし
た。そうすることで、かれは深い落胆から解放されるのです。
第 10 節
ナ ヤドゥ ヴァチャシュ チトゥラ・パダンム ハレール ヤショー
na yad vacaç citra-padaà harer yaço
ジャガトゥ・パヴィトゥランム プラグリニータ カルヒチトゥ
jagat-pavitraà praganita karhicit
タドゥ ヴァーヤサンム ティールタハンム ウシャンティ マーナサー
tad vasaya tirtham usanti mänasä
ナ ヤトゥラ ハンムサー ニラマンティ ウシク・クシャヤーハ
na yatra hamsä niramanty usik-kshanäù
全宇宙を清める唯一の御方である主を讃えていない言葉は、カラスが群がる巡礼地にすぎない、と神聖な人物たちは考える。すべてにおいて完璧なかれらは崇高な世界に住んでいるため、
そのような言葉になんら喜びを見いだすことはない。
要旨解説
カラスと白鳥の心境はそれぞれ異なっており、同類の鳥とは言えません。結果にこだわって
働く労働者や激性の人々はカラスに、すべてにおいて完璧な人々は白鳥にたとえられます。カ
ラスはゴミ捨て場に群がるものですが、それは激情に駆られた果報的活動者が、酒や女性、あ
るいは下品な感覚を楽しむ場所に喜びを感じるのと同じです。白鳥はカラスたちの会議や集会
に出ても喜びは感じません。透きとおった水、そして自然な美しさを見せる色とりどりの蓮華
の花で優雅に飾られているような、自然な美しい景観が広がる場所に姿を見せる鳥です。同じ
鳥でも、白鳥とカラスはこれほどかけ離れているのです。
自然界はさまざまな生物たちに多様な心理を作りだすものであり、そのような生物たちを一
緒くたに考えることはできません。
同じことが書物にも当てはまり、人々の心理に応じた多種多様な書物があります。ほとんど
の場合、カラスもどきの人々を引きつける市場の本は、捨てられたゴミくず同然の「感覚を魅
了する話題」で埋めつくされています。扱われているのは、肉体と希薄な心にまつわるありき
たりの話題ばかりで、美辞麗句を駆使して通俗な比喩や隠喩を盛りこんでいるにすぎません。
しかし、言葉のかぎりをどれほどつくしていても、どこにも主を讃える言葉は見つかりません。
そのような詩や散文は、どのような主題を取りあげようとも、死体を飾るだけの文章にすぎま
せん。白鳥にたとえられる気高い人々は、精神的には死んだも同然の人間が喜ぶような書物を
読んでも喜びは感じません。激性や無知に包まれたこのような書物は、種々雑多な謳い文句で
巷に出まわっていますが、私たちの精神的な望みに応えてくれることはありませんし、白鳥の
ような精神的に高貴な人々は、そのような書物にはかかわりません。気高い人々はマーナサ
(mänasa)と呼ばれますが、それはかれらが気高い境地で自発的に主に崇高な奉仕を捧げて
いるからです。この奉仕には、感覚満足や物質的自我の心からくる巧妙な推論が入る余地はあ
りません。
世の文学者、科学者、凡俗詩人、観念的哲学者、政治家など、感覚を喜ばせる物質的な発達
に没頭している人々はすべて、物質エネルギーに動かされている操り人形にすぎません。無価
値な話題の処分場に群がって喜びを感じている人々なのです。スヴァーミー・シュリーダラは、
それを「売春婦を物色する者たちの喜び」と呼んでいます。
しかし、主の栄光をつづる書物は、人類の活動の根本を理解しているパラマハンサたちによ
って楽しまれています。
第 11 節
タドゥ・ヴァーグ・ヴィサルゴー ジャナターガハ・ヴィプラヴォー
tad-väg-visargo janatägha-viplavo
ヤスミン プラティ・シュローカンム アバッダハヴァティ アピ
yasmin prati-çlokam abaddhavaty api
ナーマーニ アナンタッシャ ヤショー ンキターニ ヤトゥ
nämäny anantasya yaço 'ìkitäni yat
シュリンヴァンティ ガーヤンティ グリナンティ サーダハヴァハ
çåëvanti gäyanti gåëanti sädhavaù
いっぽう、無限なる至高主の名前、名声、姿、神聖な娯楽などを満載した文献は別次元の存
在であり、間違った文化という不敬な生活に革命をもたらす崇高な言葉にあふれている。その
ような聖なる文献は、たとえ不完全な部分があるとしても、まったく正直な心を持つ無垢な人々
によって聞かれ、歌われ、受けいれられる。
要旨解説
偉大な思想家は、最悪なものから最善なものを引きだす特技をそなえています。知的な人物
は、毒から甘露を取りだし、不潔な場所から金を見つけだし、素性の卑しい家族から良妻をめ
とり、最下等の家族出身の教師や人からでもすぐれた教えを受けいれるものである、と言われ
ています。これは、どこのだれにでも例外なく当てはまる道徳律です。しかし、聖者は一般人
の基準をはるかに超えた境地にいます。聖者はいつも至高主を讃えることに没頭していますが、
それは、至高主の名前や名声を広めることでけがれた世界が清められ、『シュリーマド・バーガヴァタム』のような超越的文献を世に届けることで人々が健全に生きるようになるからです。
この要旨解説を書いているとき、インドは重大な問題に直面していました。隣国で友好国の中
国がインド国境を攻撃したのです。私たちヴァイシュナヴァは政治にかかわることはありませ
んが、昔から中国とインドは、敵対することなく何世紀も友好関係を保っていました。それは、
両国がそのような関係にあったときには世界中が神の意識に包まれていたからであり、どの国
でも神を恐れ、無垢な心を持ち、質素な生活がいとなまれていたため、政治的策略をめぐらす
必要はなかったからです。居住に適さない地区をめぐって中国とインドが争うわけがなく、も
ちろん、この問題で戦争の発端になるような出来事はありませんでした。しかし、私たちが危
惧しているカリという争いの時代の影響で、ささいな刺激でいつでも争いが誘発される可能性
が潜んでいます。これは、今回の問題が直接の原因ではなく、現代のけがれた世相が原因です。
つまり、至高主の名前と名声を讃えることを止めようとする特定のグループによる工作活動が
組織的になされている、ということです。だからこそ、『シュリーマド・バーガヴァタム』の
メッセージを全世界に流布させる必要性があるのです。インドで責任ある立場にある人々すべ
ての義務は、待ち望まれている平和を全世界にもたらし、至上の福利を世界に提供するために
『シュリーマド・バーガヴァタム』の崇高なメッセージを広めることにあります。インドがこ
の責任ある仕事をおろそかにして義務を遂行していないために、全世界におおくの争いと問題
が蔓延しています。私は確信しています、『シュリーマド・バーガヴァタム』の崇高な教えが
世界の指導者たちに受けいれられさえすれば、まちがいなくかれらの心は変化し、⺠衆も自然
にそのような指導者に従うようになるということを。大衆は、現代政治家や⺠間指導者の掌中
にいる道具とも言えます。その指導者たちの心に変化が起これば、世界の雰囲気に劇的な変化
が生じるはずです。また私は承知しています、人々の神の意識をよみがえらせ、世界の雰囲気
をふたたび精神的に変えるこの超越的な言葉を世に広める誠実な試みには、幾多の困難がとも
なっていることを。適切な言語を使って、特に外国語でこの哲学を世に知らしめようとする私
の試みは失敗するおそれが多分にあり、正しく表現しようとする誠実な試みではあっても、文
法的なまちがいも多々あることでしょう。しかしそれでも確信しています、たとえその試みに
欠陥があっても、私が伝えんとすることの重大さが考慮され、全能の神を讃える誠実な試みを
やがて読者たちが認めてくれるはずだ、ということを。自分の家が火事になった人は、外に飛
びだして近所の人たちに助けを求めますが、その隣人が外国人だったとしても、そしてたとえ
通じない言葉で説明したとしても、相手は緊迫した状況を理解してくれることでしょう。『シ
ュリーマド・バーガヴァタム』の崇高なメッセージをけがれたこの世界に広めることにも、同
じ協調精神が必要です。結局、主題は精神的価値にかかわる専門的科学ですから、たいせつなことは言語ではなく手段です。この偉大な書物が説く手段が世界の人々に理解されれば、成功
をおさめることができます。
全世界の大衆が物質的なものごとに没頭しすぎれば、ささいなことで個人が別の個人を、国
家が別の国家を攻撃するのは当然です。それが、カリという争いの時代の法則なのですから。
世界はすでに名状しがたい堕落のきわみに達しており、それは周知の事実です。感覚を満たす
物質的な考えを詰めこんだ無益な本が世にあふれており、多くの国では猥褻な本を検閲する国
営の組織があります。これは、政府や公共の指導者たちはこのような本を望んでいないのに、
国⺠が感覚満足を求めているから市場に出まわっていることを如実にしめしています。大衆は
なにかを読みたいと望むのですが(それは自然な欲求ですが)、心がけがれているために俗な
本を求めています。そのような状況で、『シュリーマド・バーガヴァタム』のような超越的文
献は、けがれた心を持つ大衆の活動を減らすだけではなく、おもしろい本を読もうとするかれ
らの欲求を満たす⾷糧になってくれます。読みだしてすぐには楽しめないかもしれません。⻩
疸に苦しむ患者が氷砂糖を⾷べたがらない状態に似ていますが、それでも氷砂糖だけが⻩疸の
治療薬だということも忘れてはなりません。同じように、『バガヴァッド・ギーター』と『シ
ュリーマド・バーガヴァタム』の読書を普及させる組織的な運動を推進すれば、感覚満足とい
う⻩疸症状を治療する氷砂糖の役目を担ってくれるはずです。この文献に対する味覚を高めれ
ば、社会を毒するだけのほかの書物もおのずと姿を消していくことでしょう。
確かにこの『シュリーマド・バーガヴァタム』には数多くの文章・編集の誤りなどがあるか
もしれませんが、やがては社会のすべての人々が迎えてくれることを確信しています。なぜな
ら、この章に心優しくも登場してくださったシュリー・ナーラダによって勧められている書物
だからです。