人間として人生の最善使命
これは『バガヴァッド・ギーター』の中でも非常に重要な節です。人生の転換点とも言える箇所です。kārpaṇya-doṣa—「みじめさ」「卑小さ」の欠点です。doṣaとは欠点という意味です。本来の立場に従って行動しないこと、それが欠点であり、みじめさと呼ばれます。誰もがそれぞれのsvabhāva「性質」を持っています。yasya hi svabhāvasya tasyāso duratikramaḥ—よく知られた例です。つまり、「習慣は第二の天性である」ということです。ある人が何かの習慣、または性格に染まっている場合、それを変えるのは非常に困難です。例としてよく出されるのは、śvā yadi kriyate rājā saḥ kiṁ na so uparhanam—たとえ犬を王様にしても、靴を舐めなくなるわけではない、ということです。犬の性質は靴を舐めること。たとえ王の衣を着せ、玉座に座らせても、靴を見た途端に飛びかかって舐めようとする。それがsvabhāva「性質」というものです。これが Kārpaṇya-doṣaです。動物の人生においては、prakṛti、物質エネルギーによって与えられた性質を変えることは不可能です。Prakṛteḥ kriyamāṇāni [Bg. 3.27]. Kāraṇaṁ guṇa-saṅgo 'sya... Kāraṇaṁ guṇa-sangaḥ asya sad-asad-janma-yoniṣu [Bg. 13.22]—なぜこのようなことが起きるのか? すべての生命体は、神の部分的な拡張体、つまり「分御霊(ぶんみたま)」です。したがって、本来その性質は神と同じくらい純粋で尊いものです。違いは「量」の問題であり、「質」は変わらないのです。Mamaivāṁśo jīva-bhūtaḥ [Bg. 15.7].
ここでアルジュナはkārpaṇya-doṣopahataḥ-svabhāvaḥ [Bg. 2.7]、すなわち「私はクシャトリヤでありながら、自分の本性が惨めさの欠陥に侵されてしまった」と言っています。彼は理解しています、「私は間違ったことをしている。戦うことを拒んでいる。だからこれはkārpaṇya-doṣa、すなわち『惨めさ』である」と。「惨めさ」とは、何か資産や手段を持っていながら、それを使わないことを意味します。それがkṛpaṇatāすなわち、「みすぼらしさ」です。。二種類の人間が関係します。それはbrāhmaṇaとśūdraです。brāhmaṇaとは、惨めではない人のことです。人間の身体という、何百万ドルにも相当する大きな資産を手に入れていますが、それを適切に活用せず、ただ「自分はなんて美しいんだ」と見つめているだけなら、それは無意味です。その美しさを使うべきなのです。その資産を活かすべきなのです。これが「人間の使命」を生かすことです。これがbrāhmaṇaであるということ、すなわち寛大であるということです。
それゆえ、Prahlāda Mahārājaはこう言っています―durlabhaṁ manuṣyaṁ janma adhruvam arthadam [SB 7.6.1]。彼はクラスの友達の間で説教していました。彼は悪魔的な家系、Hiraṇyakaśipuのもとに生まれました。そして彼のクラスの友達たちも、同じような性質の者たちでした。そこでPrahlāda Mahārājaは彼らにこう勧めていました―「親愛なる兄弟たちよ、私たちはクリシュナ意識を育もうではないか」と。しかし、他の少年たちはクリシュナ意識について何を知っていたでしょうか?Prahlāda Mahārājaは生まれたときから解脱していました。だから彼らは「クリシュナ意識とは何ですか?」と尋ねました。彼らには理解できなかったのです。そこでPrahlāda Mahārājaは彼らを納得させようとして言いました―durlabhaṁ manuṣyaṁ janma tad apy adhruvam arthadam.この人間の身体は durlabhaṁ です。Labdhvā sudurlabhaṁ idam bahu sambhavānte(SB 11.9.29)。この人間の身体の形は、物質自然から与えられた大きな恩恵です。人々は非常に悪賢く愚かなので、この人間の生命の価値を理解していません。この身体を、猫や犬のように感覚満足のために使ってしまいます。だからこそśāstraは言います、「いいえ。この人間の身体は、豚や犬のように無駄にするためのものではない」と。Nāyaṁ deho deha-bhājāṁ nṛ-loke。誰もが物質的な身体を持っています。しかし nṛ-loke、つまり人間社会においては、この身体を無駄にしてはなりません。Nāyaṁ deho deha-bhājāṁ nṛ-loke kaṣṭān kāmān arhati viḍ-bhujāṁ ye(SB 5.5.1)。この人間の人生は、ただ感覚満足のために昼も夜も無駄に苦労して働くようなものではありません。それは豚や犬の仕事です。彼らも同じことをしています。一日中、ただ感覚満足のためだけに懸命に働いているのです。
ここでアルジュナは自分自身について説明しています、「はい、kārpaṇya-doṣo。自分の義務を忘れているために、upahata-svabhāvaḥ、つまり自分の本来の性質に混乱しています。」と。kṣatriyaは常に活動的であるべきです。戦争や戦いがあれば、非常に熱心でなければなりません。もし別の kṣatriya が「お前と戦いたい」と言えば、彼は決して断ることはできません。「よし、かかってこい。剣を取れ」とすぐに言うのです。「さあ来い」と。それが kṣatriya です。ところが今、彼は戦うことを拒否しています。彼は自分の義務、クシャトリヤの義務を忘れています。だから彼は認めています、「はい」、kārpaṇya-doṣa, kārpaṇya-doṣopahata-svabhāvaḥ [Bg. 2.7]、「私の本来の義務を忘れています。だから私は惨めな者になってしまいました。」
今、惨めになってしまうというのは、病的な状態です。では、そのときあなたの義務は何か?それは、…たとえば病気になったときに医者のところへ行き、「先生、どうしたらいいですか?今、私はこの病気に苦しんでいます」と尋ねるように。これがあなたの義務です。同じように、私たちが義務に困惑していたり、義務を忘れてしまったときは、優れた人物のところへ行って「どうすればよいでしょうか?」と尋ねることが非常に良いのです。
では、Kṛṣṇaより優れた人物がいるでしょうか?だからArjunaは言います、pṛcchāmi tvām、「私はあなたにお尋ねします。なぜなら、それが私の義務だからです。私は今、自分の義務において堕落し、過ちを犯しています。それは良くありません。だから私は自分よりも優れた誰かに尋ねるべきなのです。」これが義務なのです。Tad vijñānārthaṁ sa gurum eva abhigacchet [MU 1.2.12]―これがヴェーダにおける義務です。誰もが困惑しています。誰もがこの物質世界で困惑して苦しんでいます。しかし、彼らは正真正銘のguruを探そうとはしません。いいえ。それがkārpaṇya-doṣaです。それがkārpaṇya-doṣaです。ここで、Arjunaはkārpaṇya-doṣaから抜け出そうとしています。どうやって?今、彼はKṛṣṇaに尋ねています。pṛcchāmi tvām、「親愛なるKṛṣṇa、あなたは最も優れた人物です。それは私も知っています。あなたはKṛṣṇaです。だから私は困惑しています。実際に、私は自分の義務を忘れています。だからこそ、あなたにお尋ねしているのです。」
ですから、至高の人格、つまりKṛṣṇaまたはその代表者に近づかなければなりません。他の者たちはすべて無知で愚か者です。もしKṛṣṇaの代表者でない人物、guruに近づいたならば、それは愚か者に近づいたことになります。どうやって啓発されるでしょうか?Kṛṣṇaまたはその代表者に近づかなければなりません。それが求められていることです。Tad vijñānārthaṁ sa gurum eva abhigacchet([MU 1.2.12])。ではguruとは誰か?Samit-pāṇiḥ śrotriyaṁ brahma-niṣṭham。guruとは完全にKṛṣṇa意識に満ちた者です。Brahma-niṣṭham。そしてśrotriyam。śrotriyamとは、聞くことによって、上位の権威からśrotriyaṁ paṭhaを通して知識を受け取った者を意味します。Evaṁ paramparā-prāptam imaṁ rājarṣayoḥ viduḥ([Bg. 4.2])。ですから、私たちはArjunaから学ばなければなりません。私たちが困惑し、本当の義務を忘れ、そのために混乱しているとき、私たちの義務は、ArjunaがしているようにKṛṣṇaに近づくことです。では、「Kṛṣṇaはどこにいるのか?」と言うならば、Kṛṣṇaは今ここにいませんが、Kṛṣṇaの代表者はいます。あなたはその人に近づくべきです。それがヴェーダの命令です。Tad-vijñānārthaṁ sa gurum eva abhigacchet([MU 1.2.12])。人は必ずguruに近づくべきです。そしてguruとは、元々はKṛṣṇaのことです。Guru.. Tene brahma hṛdā ya ādi-kavaye muhyanti yat sūrayaḥ([SB 1.1.1])。Janmādyasya yataḥ anvayāt itarataś ca artheṣu abhijñaḥ svarāt。あなたはguruに近づくべきなのです。それがguruです。
ですから、私たちはBrahmāをguruと見なします。なぜなら、彼はこの宇宙で最初に創造された存在だからです。彼は受け取ったものを伝えました。私たちはBrahma-sampradāyaに属しています。sampradāyaは4つあります:Brahma-sampradāya、Śrī-sampradāya、Rudra-sampradāya、そしてKumāra-sampradāya。これらはすべてmahājanasです。Mahājano yena gataḥ sa panthāḥ([Cc. Madhya 17.186])。私たちはmahājanaが示した行動の道を受け入れる必要があります。
ですから、Brahmāはmahājanaです。Brahmāの絵には、彼が手にVedaを持っている姿が描かれています。彼はVedaの最初の教えを与えた者です。しかし、彼はどこからVedic knowledgeを得たのでしょうか?それゆえに、Vedic knowledgeはapauruṣeya、つまり人間によるものではなく、神によるものです。Dharmaṁ tu sākṣād bhagavat-praṇītam([SB 6.3.19])。では、神、KṛṣṇaはどのようにしてBrahmāに知識を与えたのでしょうか?Tene brahma hṛdā。Brahmaとは、Veda知識を意味します。Śabda-brahma。Tene、Kṛṣṇaはhṛdā(心)からVeda知識を注入しました。Teṣāṁ satata-yuktānāṁ bhajatāṁ pritī-pūrvakam[Bg. 10.10]。
ブラフマーが創造されたとき、彼は困惑しました=「私の義務は何か?すべてが暗い。」それで彼は瞑想し、クリシュナが彼に知識を授けました、「あなたの義務はこれです。こうしなさい。」Tene brahma hṛdā ya ādi-kavaye. Ādi-kavaye(SB 1.1.1)。ブラフマーはādi-kavayeです。したがって、真のグルはクリシュナです。そしてここで…クリシュナがバガヴァッド・ギーターを教えています。このような悪党や愚か者たちは、クリシュナをグルとして受け入れようとしません。彼らは何の資格もない悪人や罪深い者をグルとして受け入れるのです。そんな者がどうしてグルになれるでしょうか?だからグルはクリシュナなのです。
ここでアルジュナが例を示しています。Pṛcchāmi tvām。「そのtvāmとは誰か?」クリシュナです。「なぜ私があなたに尋ねているのか?」Dharma-sammūḍha-cetāḥ(Bg. 2.7)「私は自分の義務、dharmaにおいて混乱しているのです。」Dharmaとは義務のことです。Dharmaṁ tu sākṣād bhagavat-praṇītam(SB 6.3.19)。Sammūḍha-cetāḥ、「では私は何をすべきか?」Yac chreyaḥ、「本当の義務は何か?」Śreyaḥです。Śreyaḥとpreyaḥ、この2つがあります。Preyaḥは、すぐに快く感じるもの。Śreyaḥは最終的な目的を意味します。例えば、子供が一日中遊びたいと思う。それは子供の本性であり、preyaḥです。
しかしśreyaḥは、将来のために教育を受けて人生を確立することです。それがśreyaḥです。だからアルジュナはpreyaḥではなく、śreyaḥの指示をクリシュナに求めているのです。preyaḥ、つまり、すぐに「戦わないことで幸せになる、親族を殺さないことで幸せになる」と考えていたのは、まるで子供のような考えでした。それがpreyaḥです。しかし、実際の意識に目覚めたとき―実際には、彼は知性的なので―彼はpreyaḥではなく、śreyaḥを求めています。Yac chreyaḥ syāt、「本当の最終的な人生の目的は何か?」Yac chreyaḥ syāt. Yac chreyaḥ syāt niścitaṁ(Bg. 2.7)。Niścitamとは、確定された、間違いのないという意味です。Niścitam。Bhāgavataにはniścitamという語があります。Niścitamとは、調査や研究をする必要がない、すでに確定されたこと、「これが決定である」ということです。我々のような小さな頭脳では、実際のniścitaṁ、確定されたśreyaḥを見出すことはできません。それを知るには、クリシュナまたはその代表者に尋ねなければなりません。これが重要な点です。Yac chreyaḥ syāt niścitaṁ brūhi tan me.
だから…「どうかそのことを私にお話しください。」「ではなぜ私に話すのですか?」ここで言われているのは、śiṣyas te 'ham [Bg. 2.7] = 「今、私はあなたを私のグル(師)として受け入れます。私はあなたの弟子(śiṣya)になります。」śiṣyaとは「あなたが言うことは何でも受け入れます」という意味です。それがśiṣyaです。śiṣyaという言葉はśas-dhātuに由来します。śas-dhātu。Śāstra。Śastra。Śāsana。Śiṣya。これらは同じ語根から来ています。śas-dhātuは支配、統治を意味します。私たちはさまざまな形で支配されることができます。正しいグルの弟子となって支配されることもできます。それがśas-dhātuです。あるいは、śastra(武器)によって支配されることもあります。王が武器を持っているように。もし王や政府の指示に従わなければ、警察や軍隊がいます。それがśastraです。そしてśāstraもあります。śāstraとは書物、経典のことで、例えばBhagavad-gītāのようなものです。すべてそこにあります。だから私たちはśastra、śāstra、あるいはグルによって支配されなければなりません。あるいは弟子śiṣyaになることです。だから言われています、śiṣyas te 'ham [Bg. 2.7] =「私は自発的に…あなたに身を委ねます。」「今、あなたは弟子になりました。あなたが私の弟子になった証拠は何ですか?」śādhi māṁ tvāṁ prapannam:「私は完全に降伏しました。」prapannam。
このような知識が必要です。どうやって本当のグルを見つけ、どうやって彼に身を委ねるか。
グルとは、「私はグルを持っているので、まるで注文を出す人のように『親愛なるグル、私はこのような苦しみにあります。薬をください。』『はい、はい。これを飲みなさい。』『はい。』」ということではありません。そういうグルではありません。もし病気にかかっているなら、医者に行きます。薬をもらうのはグルの役目ではありません。グルの役目はあなたにKṛṣṇaを与えることです。Kṛṣṇa sei tomāra, kṛṣṇa dīte pāra [Bhajana-Lālasā, Song 7]。Vaiṣṇavaはグルに祈ります:「先生、あなたはKṛṣṇaの信奉者です。もしよければ、私にKṛṣṇaを与えてください。」これが弟子(śiṣya)の立場です。グルの役目は物質的なものではなく、どうやってあなたにKṛṣṇaを与えるかです。物質的なものはたくさんの機関がありますが、もしKṛṣṇaが欲しいなら、グルが必要です。誰がグルを必要とするのでしょうか?
tasmād guruṁ prapadyeta
jijñāsu śreya uttamam
śābde pare ca niṣṇātaṁ
brahmaṇy upasamāśrayam
[SB 11.3.21]
師はファッションではありません。「ああ、私は師を持っている。師を作ろう」というものではありません。師とは真剣な者を意味します。Tasmād guruṁ prapadyeta。人は師を探し求めなければなりません。なぜならJijñāsu śreya uttamam。最高の善(最高の至福)に対して知りたがる者です。ただ流行のように犬を飼うように師を飼うのではありません。それは師の道ではありません。「師は私の決定に従って行動する」そんなものではありません。師とはあなたにクリシュナを与えられる者のことです。それが師です。Kṛṣṇa sei tomāra。なぜならクリシュナこそ師だからです。これはBrahma-saṁhitāに示されています。vedeṣu durlabhaṁ adurlabhaṁ ātma-bhaktau [Bs. 5.33]。ヴェーダは希少であり、その中でも最高の自己献身はさらに希少です。もし独立してヴェーダを学びたいなら、悪党たちがいます…彼らは「私たちはヴェーダだけを理解している」と言います。あなたはヴェーダを理解していますか?どうやってヴェーダを理解しますか?ヴェーダは言います、tad vijñānārthaṁ sa gurum eva abhigacchet [MU 1.2.12]。ヴェーダを理解するには、ただヴェーダの書物を買って読めばいいわけではありません。ヴェーダはそんなに安いものではありません。ブラフマナにならなければ、誰もヴェーダが何であるかを理解できません。
ここでアルジュナは言います、prapannam:「今、私はあなたに身をゆだねました。もうあなたと対等の立場で、まるで多くのことを知っているかのように話すことはしません。」彼の言うことは正しかったですが、彼は物質的な視点で考えていました。彼は考えていました、
praduṣyanti kula-striyaḥ [Bg. 1.40]。もしみんな...これは物質的な観点です。しかしヴェーダの知識は精神的であり、uttamam。したがって、Tasmād guruṁ prapadyeta jijñāsu śreya uttamam [SB 11.3.21]。このśreya。最高のもの。Yac chreya syāt niścitaṁ。確定したもの。変わる余地はありません。その教えは今、クリシュナによって与えられます。sarva-dharmān parityaja mām ekaṁ śaraṇaṁ vraja。そしてこれが実現します─bahūnāṁ janmanām ante jñānavān māṁ prapadyate [Bg. 7.19]。ですから、人生の最高の目的を達成するためには、完全にクリシュナまたはその代理者に身をゆだねなければならないです。そうすれば人の人生は成功します。