物質世界への愛着とクリシュナの庇護
今、アルジュナは問題に直面しています。その問題とは何でしょうか? たとえば、私の友人たち、親戚、息子たち、孫たち、義理の父、義理の兄弟、友人、そして私の動物たちを皆集めてきたとしましょう。なぜなら、軍勢senayor ubhayor apiの中には動物もいたからです―馬や象たち。彼らもまた一員なのです。ヴェーダ的な考え方によれば、動物たちも家族の一員です。彼らは奉仕をしてくれているからです。家族のある一部の者たちには保護を与え、他の一部からはすべてを搾取して最後には喉を切る―これは文明ではありません。あなたの息子、妻、娘、牛、犬―これらは皆動物です―ロバや家畜、馬、象。もしあなたが裕福なら、象を飼うこともできます。でもそれは、家族や国家のレベルにおいて、一部の者たちには保護を与え、他の者たちの喉を切っても良いという意味にはなりません。それはなんと恐ろしいことでしょう。今、彼ら全員がそこにいます。そしてアルジュナにとっての問題は、彼らを殺さねばならないことです。これは戦いなのです。しかも、家族同士の戦いなのです。
ですから、一部の家族はあちら側にいて、一部はこちら側にいるのです。では、あちら側には誰がいるのでしょうか?Tatrāpaśyat sthitān pārthaḥ pitṝn atha pitāmahān [Bg. 1.26]とあります。pitṝn、つまり父のような立場にある者たち、そしてpitāmahā、祖父たちです。Bhīṣmadevaは本当の祖父であり、pitāmahāで、あちら側にいます。Droṇācāryaも教師としてあちら側にいます。彼らは敬意を払うべき存在です。実際、アルジュナはそのように行動しました。Droṇācāryaと戦う前に、まずその蓮の足元に矢を一本放ち、礼を捧げたのです。これが礼儀なのです。「先生、あなたが教えてくれた戦闘の技術を、今私はあなたに対して使おうとしています。これは義務なのです。ですから、あなたにお辞儀を捧げます。」そしてDroṇācāryaもまた、矢を一本放ち、それがアルジュナの頭に触れました。「わが子よ、祝福あれ」と。これが義務なのです。どのような祝福か?「私を殺すことでだ。私はあなたが私を殺すことを知っている。だからこそ、私はあなたにその祝福を与えるのだ。」これが義務です。弟子が戦うにあたり、Droṇācāryaの足元に触れて言います:「先生、これは義務です。今、私たちは面と向かって戦わねばなりません。ですから、どうか祝福を。」そして、もう一方の側も祝福を与えます:「ああ、あなたにはすべての祝福を与えよう。」これが問題なのです。この物質世界には問題が多いのです。特に家族関係があるときには尚更です。「社会、友情、愛─それらは神より授けられしもの」と人は言いますが、それは神から授けられたものではありません。そうではありません。それは絡まりなのです。それは束縛なのです。Dehāpatya─これはŚrīmad-Bhāgavatam第2編にある節です。
Dehāpatya-kalatrādi [SB 2.1.4]最初の愛着は、自分の肉体に対するものです。「私は○○という者である。これが私、この身体である」と。私はこの身体に執着を持っています。そしてその次に、この身体から生まれた副産物、すなわちapatya—子供たち——に愛着が移っていきます。この副産物はどのように生まれるのでしょうか?kalatra—つまり妻、strīを通じてです。Strīとは、「拡張するもの」という意味です。vistāra—広がる、ということです。私は一人ですが、妻、Strīを迎えることで、その協力のもとに私は拡張されていきます。私を拡張してくれる存在、それがstrīと呼ばれるのです。サンスクリット語のすべての単語には、意味があります。
なぜ女性がstrīと呼ばれるのか?それは、彼女が私を拡張してくれるからです。どのように拡張されるのでしょうか?Dehāpatya-kalatrādiṣu [SB 2.1.4]—まず私は自分の身体に愛着を持ちます。次に、妻を得ると彼女に愛着を持ちます。そして子供が生まれると、子供にも愛着を持ちます。このようにして、私はこの物質世界への愛着を拡大していくのです。しかし、この物質世界への愛着は本来必要のないものです。それは異質なものであり、この物質的な身体もまた異質なものです。本来の私は精神的存在であり、ahaṁ brahmāsmi(私はブラフマンである)という意識なのです。しかし、私は物質自然を支配したいと望んだため、クリシュナはこの身体を私に与えてくださいました—daiva-netreṇa—神の配慮によってです。クリシュナは、私たちの望みに応じて身体を与えてくださいます。
虎の身体を望めば、クリシュナはそれを与えてくださいます。豚の身体を望めば、それも与えてくださいます。Brahmāの身体を望めば、それも可能です。半神の身体を望めば、それも与えてくださいます。アメリカ人の身体も、イギリス人の身体も、インド人の身体も、望むままに与えてくださいます。それがクリシュナの慈悲です。Ye yathā māṁ prapadyante tāṁs tathaiva bhajāmy aham [Bg. 4.11]—クリシュナは非常に慈悲深いのです。まるで、父親に逆らう息子がいても、何か楽しみたいという望みがあれば、父は「よいだろう、お金をあげるから楽しみなさい」と言って与えるように。父はとても慈悲深いのです。「自由になりなさい。好きなことをやりなさい。必要なお金も与えよう」と。
この物質的な人生とは、神が私たちに与えてくださった妥協案、譲歩なのです——感覚を満足させるために与えられた一時的なものです。クリシュナは、私たちがこの物質世界に縛られることを望んでいません。そんなことを望まれるはずがありません。たとえば、私たちが子供を作るのはなぜでしょうか?それは家庭生活にとどまり、妻や子供、友人たちと共に楽しむためです。誰もが理解できることです。なぜ私は、家族という重い責任を背負うのでしょうか?私はもともと一人でした。なぜ結婚するのでしょう?なぜ子供を作るのでしょう?なぜ友人を作るのでしょう?それは「楽しみたい」という欲望があるからなのです。
この物質世界への執着という問題は、徐々に断ち切っていかなければなりません。これがヴェーダの文明の教えです。もしあなたが「我が家へ帰る」、すなわち神のもとへ帰ることを望むのであれば、同時にこの物質世界―いわゆる社会、友情、愛情――に執着し続けていては、それは不可能です。この物質世界への少しでも魅力が残っている限り、精神世界へ移ることはできません。これが私たちの立場なのです。ですから、訓練と教育によって、私たちはこの執着から離れる必要があります。この社会、友情、愛情から離れるということです。このいわゆる社会、友情、愛情の偽りを理解しなければなりません。それはまるで、私たちがmāyāの波に流されているようなものです。バクティヴィノーダ・タークルはこう歌っています:「māyār bośe, jāccho bhese, khāccho hābuḍubu bhāi」。時に雨季になると、川に多くの植物やつる、野菜などが流されていく光景を見ることがあります。同じように、私たちもmāyāの波に流されているのです。
māyāの力で流され、浮いたり沈んだり、時には向こう岸、時にはこちら岸へと運ばれています。このように、私たちが物質世界にいる限り、さまざまな流れに翻弄されているのです。時には王国の支配者として、また時には誰かの飼い犬として。これが私たちの立場です。同じように、非常に良いたとえですが、私たちはmāyāの波に運ばれているのです。時には多くのわらや野菜などが一緒に集まり、時にはそれらがバラバラにされ、一つはあちらへ、一つはこちらへと離れていきます。
ここでも同じように、私たちは社会、友情、愛といった形で集まっていますが、それはまさにmāyāの波に乗せられているようなものです。そこには本当の父も母も姉妹も誰もいません。ただのマーヤ的な、幻想の結びつきにすぎません。幻想の組み合わせ、一時的な組み合わせです。そして私たちはその結びつきに非常に執着しているために、「本当の家」、神のもとへ帰ることを拒んでいるのです。これが私たちの立場です。
ですから、私たちは彼らとクルクシェートラの戦場で対峙しなければならず、必要であれば彼らを倒してでもクリシュナの命令を実行しなければならないのです。これが私たちの立場です。もし「この物質世界で、社会、友情、愛、国、政治、社会学などに支えられて安全に生きていける」と考えているのなら—「いやいや、それは不可能です。」それはできません。あなた自身のことはあなた自身で守らなければならないのです。いわゆる社会、友情、愛、国家、民族などは、決してあなたを助けることはできません。なぜなら、あなたはmāyāの支配下にあるからです。
Daivī hy eṣā guṇamayī mama māyā duratyayā [Bg. 7.14].
prakṛteḥ kriyamāṇāni
guṇaiḥ karmāṇi sarvaśaḥ
ahaṅkāra-vimūḍhātmā
kartāham iti manyate
[Bg. 3.27]
あなたは今、māyāの支配下にあります。あなたには独立性などありません。そして、誰もあなたを救う力など持っていません。それは不可能なのです。以前にもお話しした例えを出しますが、たとえば飛行機の操縦を学んで空高く飛び上がったとします。しかし、もし空中で危険に遭遇しても、他の飛行機はあなたを助けることはできません。あなたは終わりです。だからこそ、自分自身に細心の注意を払う優れたパイロットでなければならないのです。
同じように、この物質世界では、誰もが自分自身で注意しなければなりません。どうすればmāyāの束縛から救われるか、自ら考え、行動しなければならないのです。それがクリシュナ意識運動なのです。教師はヒントを与えることができます。ācāryaも「このようにすれば救われる」という指針を示してくれるかもしれません。しかし、その教えを実行するのはあなた自身の手にかかっているのです。もし精神的な義務を正しく果たせば、あなたは救われます。そうでなければ、たとえācāryaが指導しても、あなたがそれに従わなければ、どうしてあなたを救うことができるでしょうか?ācāryaは教えや慈悲を通して可能な限り救おうとしてくれるでしょう。しかし、それを本気で自分のものにするのはあなたなのです。
今アルジュナが直面している問題も、まさにこの問題です。それは一般的な問題でもあります。Dehāpatya-kalatrādiṣu—Dehaは身体を意味します。Apatya子供を意味します。Kalatra妻を意味します。これらに私たちは守られていると思い込んでいます。「私には息子がいる、孫がいる、祖父も、義父も、義兄弟もいる。社会もある、友情もある、愛もある。これらが私を守ってくれる」と。みんなそう考えています。「私の国家、私のコミュニティ、私の思想、私の政治理念」—しかし、それらは何一つとしてあなたを救ってはくれません。Dehāpatya-kalatrādiṣu asatsu api。—それらはすべて一時的なものです。やがて消えていくのです。Asatsu api
Pramatto tasya nidhanaṁ paśyann api na paśyati—社会、友情、愛に執着しすぎる者はpramatta、つまり狂っている人です。Paśyann api na, tasya nidhanam彼は見えていても見ようとしない。「私の父は亡くなった。私が子供のころは父が守ってくれていた。でも今は?もう父はいない。誰が私を守っている?母も同じ。今、誰が守ってくれている?家族、息子、娘、妻——みんな私から離れていった。今、誰が守っている?」
実際にあなたを守っているのはクリシュナだけです。社会でも友情でも愛でもありません。それらはすべて終わってしまうのです。父がいなくなったように、祖父も去り、息子や孫もやがていなくなります。彼らは誰もあなたを守ることはできません。ただクリシュナだけが、あなたを守ってくださるのです。だからこそ、あなたはクリシュナに帰依しなければなりません。Sarva-dharmān parityajya mām ekaṁ śaraṇaṁ vraja, ahaṁ tvāṁ sarva-pāpebhyo mokṣa... [Bg. 18.66]
Kaunteya pratijānīhi na me bhaktaḥ praṇaśyati [Bg. 9.31]「私の献身者は決して滅びない。」だからこそ最善の道は、クリシュナ意識に徹底的に身を委ね、完全に帰依することです。そうすれば、あなたは守られます。それ以外に、守られる道はありません。māyāの波に飲み込まれてしまうだけです。これが私たちの現状なのです。