[SB 7.5.30]
「親愛なる父よ、恐れないでください。それは教えるべきことではありません。」
matir na kṛṣṇe、「誰もクリシュナ意識にはなれない」matir na kṛṣṇe parato、「他の人によって教えられて」matir na kṛṣṇe parataḥ svato vā、「または自分自身で思索したり」
mitho 'bhipadyeta、「または会議を開いたり、宗教的な集会を開いたり」いいえ。三つのことで一つのことは、クリシュナ意識を思索的方法で学ぶこと、自己を悟ることです。
例えば、たくさんの人々が「なぜ私はグルに行かなければならないのか?自分で悟ることができる。私は瞑想する。」と言って非常に興味を持っています。それがsvataḥです。そしてparataḥ とは他者の教えによることです。そしてmitho, mithoとは集会によることです。
そして、gṛha-vratānām。もし誰かがgṛha-vratāであれば...二つのことがあります=gṛhasthaとgṛha-vratā、またはgṛhamedhi。「だからgṛha-vratānāmの人々は...」というのは、彼が自分の父親の立場を指摘しているからです、彼はgṛha-vratāです。彼には他のことはありません;ただお金を得ることを望んでいるだけです、hiraṇya。hiraṇyaは金を意味し、kaśipuは快適なアパートを意味します。それだけです。だからプラフラーダ・マハーラージャは言っています、gṛha-vratānām、「もし誰かが快適な家庭生活を送ることを自分の目標とするならば、その人は、思索、教えること、または集会によって、決してKṛṣṇa意識を発展させることはありません。」gṛha-vratānām。
では、彼らの立場は何ですか?今、adānta-gobhir viśatāṁ tamiṣram: 「彼らは自分の感覚を制御することができず、そのため、物質的存在の最も暗い領域に入ってしまっています。」Punaḥ punaś carvita-carvaṇānām: 「彼らの唯一の仕事は、すでに噛まれたものを再び噛むことです。」彼らには他に方法がありません。Gṛha-vratānām、物質的に幸せになりたい者たち、実際には彼らはすでに噛まれたものを再び噛んでいるのです。
感覚的な快楽に過度に執着し、「家族生活や社会生活の中で幸せになれる」と結論づけている人々がいます。ビディヤーパティは歌っています:「熱砂の上の一滴の水のように、子供、友人、女性との社会における愛情」。私たちの社会とは、すなわち、社会、友情、愛情、女性がいて、子供がいて、友人がいる社会です。確かに何らかの楽しみはあります。さもなければ、なぜ人々はこの地位に固執するために一生懸命働くのでしょうか?ビディヤーパティは歌っています:「熱砂の上の一滴の水のように、子供、友人、女性との社会における愛情」。確かに何らかの楽しみはありますが、その楽しみは非常に取るに足らないものであり、砂漠の中の一滴の水に例えることができます。
砂漠を、もしそれを庭や生産的な畑にしたいなら、水を注がなければなりません。海の水全部を注がなければならないのです。今、もし誰かが「わかった、水が欲しいんだね。それならこの一滴の水をあげよう」と言ったら、それで何ができるでしょうか?
同じように、私たちの心も多くのものを切望しています。私たちは切望しています…実際には私たちはKṛṣṇaを切望しているのですが、それに気づいていません。私たちは物質的な手段でさまざまな方法でその切望を満たそうとしていますが、実際には私たちはKṛṣṇaを切望しているのです。ちょうど小さな子供が泣いているようなもので、それは言葉で表現できないけれども、母親の母乳を求めているのです。
その子の泣くのを止めさせるには、母親のところに渡さなければなりません。同様に、実際、私たちはKṛṣṇaを愛しています。それは事実です。なぜなら、私たちはKṛṣṇaを愛しているからです。ですから、4、5年前まではKṛṣṇaの名前すら聞いたことがなかったあなたが、なぜ今これほどまでにKṛṣṇaに夢中なのでしょうか?これが証拠です。実際、私たちはKṛṣṇaを求めているのです。このクリシュナ意識運動は、西洋諸国の若い世代によって受け入れられています。なぜでしょうか?それは、私たち一人ひとりがKṛṣṇaを愛しているからです。しかし、それは今、マーヤーによって覆い隠されています。ただその覆い、māyāを取り除けば、私たちはクリシュナ意識を持った者になるのです。
nitya-siddha kṛṣṇa-bhakti 'sādhya' kabhu naya
śravaṇādi-śuddha-citte karaye udaya
[Cc. Madhya 22.107]
クリシュナ意識というのは人工的なものではありません。私たちがクリシュナ意識について宣伝をして、本や雑誌を出版したり、説教師たちがあちこちを巡っているからといって、それが作りごとというわけではありません。いいえ。世の中にはたくさんの宣伝がありますが、それらはあまり効果がありません。では私たちはどうやって宣伝しているのか? 私たちはただこう言っているだけです――「どうかHare Kṛṣṇaを唱えてください」と。それだけです。もちろん、私たちはそれを誠実に行っています。もし私たちが、チャンタニャ・マハープラブが命じられたように、誠実かつ真剣に広めていけば、yāre dekha, tāre kaha 'kṛṣṇa' upadeśa(出会う人すべてにクリシュナの教えを語りなさい)という命令通りに行えば、それは必ず効果を持ちます。それは効果があります。この活動はとても深刻で難しい仕事というわけではありません。チャンタニャ・マハープラブは、「出会う人に『クリシュナ』を語りなさい」と言われています。ですから、もし誰かが物質的な快楽によって非常に覆われている場合でも、少し時間がかかるだけです。少し時間がかかるのです。
自然にクリシュナへの愛が存在しています。śravaṇādi-śuddha-citte(聞くことから始まる純粋な心)になります。それゆえにプラフラーダ・マハーラージャはśravaṇam(聞くこと)と言っています。もし私たちが、プロフェッショナルではなく悟りを開いていた魂たちを通して、絶えずクリシュナについて聞いていれば―
satāṁ prasaṅgān mama vīrya-saṁvido(SB 3.25.25)―
そうすれば自動的に、私たちの中に眠っていたクリシュナ意識が現れます。だからプラフラーダ・マハーラージャは次のように言っています。「この物質世界の中で幸福になろうと固く決意している者たちは、自己研鑽によっても、会議を開いても、思索によっても、クリシュナ意識に導くことはできない。」それは不可能なのです。なぜなら、彼らは物質世界の中で幸福になろうと決意しているからです。ですから、私たちの義務は、物質的な生き方の中では決して幸福にはなれないと理解することです。これが「知識」と「vairāgya(離欲)」と呼ばれるものです。
このヴァイラーギャ(vairāgya)と知識はそんなに簡単なものではありません。プラフラーダ・マハーラージャはこう言っています:adānta-gobhir viśatāṁ tamisram――それは不可能なのです。つまりプラフラーダ・マハーラージャは父親にこう保証しているのです、「心配することはありません。あなたがクリシュナ意識になることは決してありません。なぜなら、あなたの唯一の目的は家庭とお金と女性に執着することだからです。ですから安心してください、あなたのような人がクリシュナ意識に高められることはありません。」では次の疑問はこうです:なぜ彼ら(物質主義者)はこの物質的な生き方に固執するのでしょうか?それに対する答えをプラフラーダ・マハーラージャが言っています:na te viduḥ svārtha-gatiṁ hi viṣṇum[シュリーマド・バーガヴァタム 7.5.31]。
「これらの人々、つまり物質的な執着が非常に強い人々は、人生の究極の目的がヴィシュヌ、すなわち至高人格神ヴィシュヌであるということを知りません。」それが実際には人生の究極の目的なのです。私たちはこの物質世界において、クリシュナを忘れて楽しもうとし、物質自然を支配しようとして生きています。誰もが物質の主、支配者になろうとしています…。それが闘争なのです。しかし誰もこの物質世界の主にも支配者にもなることはできません。それでも主になろうとするその闘争を、彼らは「幸福」だと捉えているのです。彼らはそれを「幸福」だと考えているのです。それが激情の様式に影響された人々の性質です。彼らは一生懸命働き、それを「とても良いこと」「喜ばしいこと」と受け取ります。なぜなら彼らは知らないからです…。Na te viduḥ svārtha-gatiṁ hi viṣṇuṁ durāśayā ye bahir-artha-māninaḥ(SB 7.5.31)。彼らはこの物質世界で幸せになろうと、叶わぬ希望を抱いているのです。
それはプラフラーダ・マハーラージャによって説明されています。物質に執着する悪党どもは...。KṛṣṇaもBhagavad-gītāの中でこうも言っています、
bhogaiśvarya-prasaktānāṁ
tayāpahṛta-cetasāṁ
vyavasāyātmikā buddhiḥ
samādhau na nigacchati
[Bg. 2.44]
過度に執着している者たち、bhoga(物質的享楽)、aiśvarya(物質的な富や栄華)――bhogaiśvarya-prasaktānāṁ tayāpahṛta-cetasām。このような文明によって心を惑わされてしまった人々は、クリシュナ意識を受け入れることができません。
これが問題です。Na te viduḥ svārtha-gatiṁ hi viṣṇuṁ durāśayā ye bahir-artha māninaḥ [SB 7.5.31]。彼らはこれらの物質的活動の手配によって幸せになろうとしているのです。Andhā yathāndhair upanīyamānās te 'pīśa-tantryām。彼らは物質自然が非常に強力であることを知らず、それから抜け出すことはできないということを、もっと多くの苦しみを受ける覚悟がない限りはできません。もし自然な生活を選び、平和に生き、クリシュナ意識を実践するなら、それがあなたの本当の生活です。そして、ただ単に面倒や問題を増やすなら、あなたは苦しむことになるでしょう。それが現代文明の状況です。
次の質問は、どうして...人々はクリシュナ意識に興味がなく、そして盲目の指導者によって誤導されている。では、どうすれば...解決策は何か?それがプラハラーダ・マハーラージャが言っていることです。
naiṣāṁ matis tāvad urukramāṅghriṁ
spṛśaty anarthāpagamo yad-arthaḥ
mahīyasāṁ pāda-rajo-'bhiṣekaṁ
niṣkiñcanānāṁ na vṛṇīta yāvat
[SB 7.5.32]
したがって、純粋な献身者に身を寄せる必要があります。それが唯一の解決策です。プラハラーダ・マハーラージャは言います、「naiṣāṁ matis tāvad urukramāṅghrim」。最初は「彼らはクリシュナ意識に関心がない」ということでした。では、どうすればクリシュナ意識になれるのでしょうか、それが解決策であるならば?その後、プララーダ・マハラージャは言います、「naiṣāṁ matis tāvad」:「もし純粋な献身者に近づかない限り」、mahīyasāṁ niṣkiñcanānām、「物質的な関心を持たない偉大な人物に」、niṣkiñcana、「そしてその蓮華の御足の塵を頭に載せるならば…」「naiṣāṁ matis tāvad urukramāṅghrim」:「そのような人物に近づかない限り、クリシュナ意識になる可能性はありません」。「naiṣāṁ matis tāvad urukramāṅghrim」。純粋な献身者に近づき、その蓮華の御足の塵を頭に載せると、すぐに、anartha apagamaḥ、すべての無駄な考えから解放されます。つまり、「物質的に進歩できる」という考えを忘れることになります。これがそのプロセスです。
だから、私たちはこの物質世界とは何の関係もない niṣkiñcana に近づかなければなりません。彼の唯一の野望は、もっと Kṛṣṇa に仕えることです。そして、もし誰かが彼に近づき、彼の蓮華の御足の塵を受け入れたなら、彼は理解することができるでしょう。
Mahīyasāṁ pāda-rajo-'bhiṣekaṁ niṣkiñcanānāṁ na vṛṇīta yāvat。
このようにして、プララーダ・マハーラージャは父親と話をしましたが、父親はますます怒りを募らせました。教訓を受け入れるどころか、愚かな人に教えを施すと、逆に怒りを買うだけです。ヒトパデーシャの言葉にあるように、「愚か者に教えを施すと、怒りを引き起こし、平穏をもたらさない」とあります。愚かな人に教訓を与えても、彼はただ怒るだけで、教訓を受け入れません。なぜそうなるのでしょうか?蛇に牛乳を与えると、ただ毒が増すだけです。もし蛇を飼っていて、友好的に接し、「親愛なる蛇よ、もう噛まないでくれ。牛乳とバナナをあげるから、ここで食べて、ここにいてくれ」と言っても、蛇の毒は増すだけでです。ですから、「蛇に牛乳を与えると、ただ毒が増すだけだ」とあります。これがストーリーと学びです。
だから、プララーダ・マハーラージャの父親であるヒラニヤカシプはますます怒り始めました。結局、息子と父親です。息子は素朴な少年でした。ある日、ヒラニヤカシプは言いました。「プララーダよ、今、私はお前を殺す。お前がどのようにしてクリシュナに救われるか見てやろう。」するとすぐに、プララーダはホールの柱を見ていました。ヒラニヤカシプは王でした。そこでヒラニヤカシプはプララーダ・マハーラージャに尋ねました。「お前の神、クリシュナは柱の中にいるのか?」プララーダ・マハーラージャは言いました。「はい、父上、そこにいらっしゃいます。」するとすぐに、怒りをこめて柱を壊し、ヒラニヤカシプ、ああ、ナラシンハ・デーヴァが現れました。
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お祈り
ナマス テー ナラシンハーヤ
namas te narasiḿhāya
プラフラーダラーダ ダーイネ
prahlādāhlāda-dāyine
ヒランニャカシプル ヴァクシャハ
hiraṇyakaśipor vakṣaḥ-
シラー タンカ ナカーライエー
śilā-ṭańka-nakhālaye
プラフラーダ・マハラージを喜ばせ、悪魔ヒラニャカシプの岩のような胸のに対して、石のたがねのような爪を持つ主ナラシンハに、私は尊敬の礼を捧げます。
イトー ナラシンハ パラトー ナラシンホー
ito nṛsiḿhaḥ parato nṛsiḿho
ヤトー ヤトー ヤーミ タトー ナラシンハ
yato yato yāmi tato nṛsiḿhaḥ
バヒル ナラシンホー フリダイエー ナラシンホー
bahir nṛsiḿho hṛdaye nṛsiḿho
ナラシンハン マーディン シャラナン プラパディエー
nṛsiḿham ādiḿ śaraṇaḿ prapadye
主ナラシンハはここにもあそこにもいらっしゃいます。私がどこへ行こうが、主ナラシンハがそこにいらっしゃいます。主ナラシンハは心の内にも外にも存在するお方です。私はすべての源であり、至高なる保護の場所である主ナラシンハに身を委ねます。
タヴァ カラ カマラ ヴァレ ナカン アドゥブタ シュリンガン
tava kara-kamala-vare nakham adbhuta-śṛńgaḿ
ダリタ ヒランニャカシプ タヌ ブリンガン
dalita-hiraṇyakaśipu-tanu-bhṛńgam
ケーシャヴァ ドゥリタ ナラハリ ルーパ ジャヤ ジャガディーシャ ハレー
keśava dhṛta-narahari-rūpa jaya jagadīśa hare
ケシャヴァよ!宇宙の主よ!半神半獅子の姿を装った主ハリよ、あなたに全ての栄光あれ!人が爪の間で簡単にスズメバチをつぶせるように、スズメバチのような悪魔ヒラニャカシプの体はあなたの美しい蓮華の手から伸びる素晴らしい、鋭い爪によって引き裂かれました。
参考リンク:https://prabhupadavani.org/transcriptions/720527sbla/