パーンドゥの死後に陰謀がありました。ドリタラーシュトラは欲しがった「本来この王国は私のものである。今までは何らかの理由で手に入らなかったが、兄が亡くなった今、私が継がないのなら、せめて私の息子たちが継ぐべきだ」と。これが政治です。政治というものは常に存在し、妬みや嫉妬もあります。これが物質世界の本質なのです。避けることはできません。精神世界とは、ちょうどその逆です。精神世界には政治もなければ、嫉妬も、ねたみもありません。それが精神世界です。一方、物質世界とは、政治、嫉妬、策略、妬み――そういったものが満ちている場所です。これが物質世界なのです。天界でさえ、こうしたことがあります。動物の社会でも政治が存在します。これが性質です。「マツサラータ(matsaratā)」――それは妬みのことです。人は他人を妬みます。それがたとえ兄弟であっても、家族であっても関係ありません。ここでは、ドリタラーシュトラとパーンドゥという兄弟、そして彼らの息子たち、つまり家族同士でさえも、妬み合っていたのです。
ですから、このクリシュナ意識運動は、妬み深い人たちのためのものではありません。この運動は、人々に妬まない方法を学ばせるための運動です。これは非常に高等な、科学的な運動です――そう、妬まないことを学ぶのです。そのため、シュリーマド・バーガヴァタムの冒頭ではこのように述べられています:「dharmaḥ projjhita-kaitavo 'tra」(SB 1.1.2)「このシュリーマド・バーガヴァタムにおいては、偽りの宗教は完全に退けられている」「projjhita」とは、「完全に放棄され、追い出された」という意味です。まるで部屋の中のゴミを掃き集めて、外に蹴り出すように、偽りの宗教的体系は一切ここには含まれていません。ですから、この運動は「この宗教」「あの宗教」といった枠を超えています。どんな宗教体系であっても、そこに妬みがあるならば、それは本当の宗教ではありません。では、「妬み」とは何か、正しく理解しましょう。妬みとは、ある人が本来の所有者であるものを、私はそれを認めず、「彼に所有させない、私が所有する」と思うことです。あるいは、「誰かがそれを所有し、私はそれを許さない」という態度も妬みです。これが妬みです。
では、生きとし生ける者の正当な所有権とは何でしょうか? それを理解する必要があります。それは「生まれながらの権利」と呼ばれるものです。たとえば、誰もが政府の保護のもとに生きる権利を持っています。それが「良い政府」です。政府は生命と財産の安全を保障しなければなりません。それが政府の役割です。これは人間だけでなく、アリのような小さな存在に対しても同様です。これが本来の政府の姿です。「自分の兄弟だけを守って、他の者には保護を与えない」――そのようなことはあってはなりません。たとえば、パリクシット・マハラージは動物たちにも保護を与えていました。彼が国を巡察していたとき、一人の黒い男が牛を殺そうとしているのを見て、すぐに剣を抜いて、「お前は誰だ?牛を殺そうとしているのか?」と問いただしました。これが「良い政府」です。政府がすべての者に平等でない限り、本当の意味での統治とは言えません。神がすべての者に対して平等であるように、王や政府も神の代表であるべきです。そのため、ヴェーダ文化においては、王は至高の人格神と同等の敬意をもって扱われていました。王は「ナラデーヴァ」と呼ばれます。ナラデーヴァとは「人間の姿をした神」という意味です。なぜ王がそのように敬われたのでしょうか? それは、彼が神の代表として行動するからです。王は、自国に生まれたすべての生命に対して、妬むことなく公平でなければなりません。それが「プラジャ」(人民)です。プラジャとは「生まれた者」、言い換えれば「国民」のことです。それが王の義務だったのです。
昔は、2人の王の間で戦いが起こる時、その原則は「どちらが国民に対してより良い保護を与えることができるか」であり、私利私欲のためではありませんでした。誰が国民の命や財産をしっかりと守れるか、誰が安心して暮らせる社会を築けるか――そのような人が王になるべきだとされていました。しかし、ドリタラーシュトラとその息子たちは嫉妬深く、どうしてそのような者たちが国民を守ることができるでしょうか?彼ら自身が嫉妬に満ちているのです。現代でも同じように、多くの政治家たちは嫉妬心にとらわれ、国民の保護など考えていません。彼らは党派間の政治争いにしか関心がなく、国民がどうすれば安心して暮らせるかを真剣に考える時間もありません。本来、良い政府とは、国民が「私たちは良い統治を受けていて、心配することが何もない。食料も十分にあり、治安もよく、生活も豊かだ」と感じられるようなものであるべきなのです。
ここで、ドリタラーシュトラは嫉妬しています。彼には良い政治を行うことができません。クリシュナはそれを知っていました。そこでクリシュナは使者としてアクルーラを送りました。『シュリーマド・バーガヴァタム』で読んだことがあるでしょう。クルクシェートラの戦いの前に、ドワーラカーから叔父のアクルーラを「ハスティナープラ(現在のニューデリー)へ行って、状況を見てきなさい」と送ったのです。アクルーラは、ドリタラーシュトラが何かを計画していることを理解しました。そこで彼はドリタラーシュトラに話しました。「なぜそのような計画に関わっているのですか?クリシュナはそれを望んでおられません」と。ドリタラーシュトラは、クリシュナが至高人格神であることを知っていながらも、こう言いました。「自分のしている計画が正しくないことは分かっています。クリシュナが至高人格神であることも知っています。そして、クリシュナが私にお願いしていることも理解しています。しかし、正直に言えば、私はそれを止めることができないのです。もしクリシュナが私に満足してくだされば、そのときには変わるかもしれません。」
ですから、これが物質主義者の立場なのです。物質主義的な人は、自分が罪深いことを知っています。自分がしていることが間違っているとわかっていても、それを抑えることができないのです。たとえば泥棒のようなものです。泥棒は盗みを働けば逮捕され、罰せられることを知っています。それは法律書や他の情報源から聞いたことがあるし、実際に他の泥棒が警察に連れて行かれるのも見てきたからです。つまり私たちは「聞くこと」と「見ること」、この二つの経験を持っています。ベンガル語ではこれを「デカー・シュナー(見る・聞く)」と言います。インドでは一般的に知られていることです。このように、経験には二つの種類があります。 一つは自分の目で見て、実際に体験すること。 もう一つは、信頼できる情報源から聞いて学ぶことです。そして賢い人は、信頼できる情報源から聞くだけで正しい経験を得ることができるのです。それが本当に素晴らしいのです。
ですから、私たちのプロセスというのは、完全な知識、人生の目的地についての体験を、クリシュナからただ聞くことによって得ているのです。したがって、私たちは最も知性的な人間だと言えるでしょう。直接経験することは不可能ですが、もし誰かが知性を持っていれば、ただ聞いて、考え、思案することによって、その体験を得ることができるのです。しかし、非常に罪深い者たちは、聞いても、実際に目の当たりにしてもなお、罪深い行為をやめることができません。たとえば、ドリタラーシュトラはその罪深い行いによって、非常に堕落してしまい、誰の忠告にも耳を貸さなくなってしまいました。ヴィドゥラの忠告にも、ビーシュマの忠告にも耳を貸さず、「そんな計画をしてはなりません。パーンダヴァたちは正当な相続人です。彼らはまだ若いかもしれませんが、騙そうとしてはいけません」と言われても、ドリタラーシュトラは…
ですから、戦いの準備が整い、dharma-kṣetre kuru-kṣetre(『バガヴァッド・ギーター』1.1)に戦場が設定されたとき…。Dharma-kṣetreとは、kuru-kṣetre、すなわち巡礼地を意味します。人々はいまでも、宗教的な儀式を執り行うためにこの地を訪れます。ヴェーダにはこう記されています:「宗教的な儀式を行いたいのなら、クルクエトラに行きなさい(kurukṣetre dharmam ācaret)」と。したがって、クルクシェートラはダルマクシェートラであり、架空の場所ではありません。それは架空のことではなく、いわゆる悪質な解説者たちが言うように、「クルクルエトラとはこの肉体のことだ」。そうではありません。そのままです。
「キム・アクルヴァタ・サンジャヤ」(バガヴァッド・ギーター1.1)これは、盲目の王ドリタラーシュトラが秘書のサンジャヤに尋ねている場面です。彼は盲目で、常に忠実な秘書であるサンジャヤの助けを受けていました。サンジャヤは、ハートの中で起こっていることを“テレビジョン”のように体験しながらバガヴァッド・ギーターを語っています。この技術は現代ではまだ開発されていません。私たちは機械を通じてテレビを見ますが、もう一つのテレビが存在します――それは、自分の心の中で、外で起こっているすべてを“見る”ことができるものです。サンジャヤはヴャーサデーヴァの恩恵によってこの“心のテレビジョン”の力を得ていました。彼は主君と共に部屋の中に座っていながら、実際に戦場で何が起こっているのかを見て、それを語っていたのです。これがバガヴァッド・ギーターの基本的な前提、つまり土台となる部分です。