Rama Navmi
主ラーマチャンドラもその弟たちラクシュマナ、バラタ、シャトルグナも皆、ジーヴァ・タットヴァではなくヴィシュヌ・タットヴァです。至高人格神はたいへん数多くの姿に拡張なさいます。Advaitam acyutam anādim ananta-rūpam。 彼らはひとりであって同一ですが、ヴィシュヌ・タットヴァにはたくさんの姿と化身があります。『ブラフマ・サンヒター』(5-39)では、rāmādi-mūrtiṣu kalā-niyamena tiṣṭhan.と確証されています。主にはラーマ、ラクシュマナ、バラタ、シャトルグナのようにたくさんの姿かたちがあり、主の創造のどの部分にも存在する可能性があります。これらのお姿は個々の人格神として永続的かつ永遠に存在し、それはたくさんのロウソクが同じ強さを秘めているのと同じです。ヴィシュヌ・タットヴァであるラーマ、ラクシュマナ、バラタ、シャトルグナは皆等しく強力で、神々の祈りに応えてマハーラージャ・ダシャラタの息子となられたのでした。
9-10-3
tasyānucaritaṁ rājann
ṛṣibhis tattva-darśibhiḥ
śrutaṁ hi varṇitaṁ bhūri
tvayā sītā-pater muhuḥ
tasya — 至高人格神ラーマチャンドラとその弟たちの; anucaritam — 超越的な活動; rājan — 王(マハーラージャ・パリークシット)よ; ṛṣibhiḥ — 偉大な聖者や聖人によって; tattva-darśibhiḥ —絶対心理を知っている人によって; śrutam — 全員が聞いた; hi — 実に; varṇitam — たいへんすばらしく述べられているので; bhūri — たくさんの; tvayā — あなたによって; sītā-pateḥ — シーター妃の夫である主ラーマチャンドラの; muhuḥ — 頻繁に
翻訳
パリークシット王よ、主ラーマチャンドラの超越的な活動は、真実を目撃してきた偉大な聖者たちによって述べられてきた。あなたはシーター妃の夫である主ラーマチャンドラについて何度も耳を傾けてきたので、これらの活動を簡単に語ることにしよう。聴いて下さい。
解説
博士号を持っているからという理由だけで高い教育を身に着けているかのように装っている近代のラークシャサたちは、主ラーマチャンドラが至高人格神ではなく普通の人間であると証明しようとしました。しかし博識であり精神的に高まっている人たちは、そのような考えを決して受け入れません。彼らが受け入れるのはタットヴァ・ダルシー、すなわち絶対真理を知る者が述べた主ラーマチャンドラとその活動だけです。『バガヴァッド・ギーター』(4-34)の中で至高人格神が助言なさっています。
tad viddhi praṇipātena
paripraśnena sevayā
upadekṣyanti te jñānaṁ
jñāninas tattva-darśinaḥ
「精神の師に近づいて真理を学び、恭しく問い、教えに従って師に仕えよ。自己の本性を悟った魂は真理に精通しているので、弟子に知識を授けることができる」。タットヴァ・ダルシー、すなわち絶対真理について完全な知識を持っていないかぎり、人格神の活動を述べることはできません。したがって、いわゆる『ラーマーヤナ』や主ラーマチャンドラの活動の物語といったものがたくさんありますが、実際には権威のないものもあります。時には個人の想像や憶測、あるいは物質的な感情に基づいて書かれていることもあります。しかし主ラーマチャンドラの資質は想像力で創り上げたものとして扱われてはなりません。シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは主ラーマチャンドラの話を述べるに際し、「あなたはすでに主ラーマチャンドラの活動について聞いたことがある」とマハーラージャ・パリークシットに言いました。ですから、どうやら5000年前には『ラーマーヤナ』や主ラーマチャンドラの活動の物語がたくさんあったようですし、今でもたくさんあります。しかし私たちは、博士号だけに基づいて知識を主張するいわゆる学者ではなく、タットヴァ・ダルシー(jñāninas tattva-darśinaḥ)によって書かれた本を選ばなくてはなりません。シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーはこのことを警告しています。Ṛṣibhis tattva-darśibhiḥ。ヴァールミーキによって編纂された『ラーマーヤナ』は大規模な作品ですが、その同じ活動がここではシュカデーヴァ・ゴースヴァーミーによっていくつかの節で述べられているのです。
9-10-4
gurv-arthe tyakta-rājyo vyacarad anuvanaṁ padma-padbhyāṁ priyāyāḥ
pāṇi-sparśākṣamābhyāṁ mṛjita-patha-rujo yo harīndrānujābhyām
vairūpyāc chūrpaṇakhyāḥ priya-viraha-ruṣāropita-bhrū-vijṛmbha-
trastābdhir baddha-setuḥ khala-dava-dahanaḥ kosalendro ’vatān naḥ
guru-arthe — 主の父親の約束を守るために; tyakta-rājyaḥ — 王の立場を捨てて; vyacarat — さまよった; anuvanam — 森から森へと; padma-padbhyām — 主の蓮華の御足で; priyāyāḥ — 愛する妻、すなわちシーター妃; pāṇi-sparśa-akṣamābhyām — あまりにも繊細なので、シーターの手の平に触ることさえできなかった; mṛjita-patha-rujaḥ — 道を歩き回ったため疲れがやわらいだ; yaḥ — ~である主; harīndra-anujābhyām — サルの王ハヌマーンと主の弟ラクシュマナに同行されて; vairūpyāt — 醜いために; śūrpaṇakhyāḥ — シュールパナカーという名のラークシャシー(女性の悪魔)の; priya-viraha — とても愛しい妻と別れていることで苦しんで; ruṣā āropita-bhrū-vijṛmbha — 怒りで眉をふるわせて; trasta — 恐れること; abdhiḥ — 海; baddha-setuḥ — 海の上に橋を架けた者; khala-dava-dahanaḥ — 森をむさぼり食う火のようにラーヴァナのような妬み深い者を殺すお方; kosala-indraḥ — アヨーディヤの王; avatāt — 喜んで守る; naḥ — 私たちを
翻訳
父の約束を完全に守るために主ラーマチャンドラは速やかに王の地位を退き、妻のシーター妃に手の平で触れられることさえ耐えられないほどに繊細な蓮華の御足で、彼女を連れて森から森へとさまよった。また、サルの王であるハヌマーン(またはスグリーヴァという別のサル)と主の弟の主ラクシュマナも同行したが、それは森での放浪による主の疲れを和らげていた。主はシュールパナカーの鼻と耳を切り落として醜くし、シーター妃から引き離された。激怒した主は眉をしかめて海を怖がらせ、海はその上に橋を架けることを主に許した。それから主はラーヴァナの王国に入り、火が森をむさぼり喰うように彼を殺した。その至高主ラーマチャンドラが私たちに全ての保護を与えて下さいますように。
9-10-5
viśvāmitrādhvare yena
mārīcādyā niśā-carāḥ
paśyato lakṣmaṇasyaiva
hatā nairṛta-puṅgavāḥ
viśvāmitra-adhvare — 偉大な聖者ヴィシュヴァーミトラの供犠の場に; yena — ~である方(主ラーマチャンドラ); mārīca-ādyāḥ — マーリーチャに率いられて; niśā-carāḥ — 無知の暗闇の夜にさまよう非文明人; paśyataḥ lakṣmaṇasya — ラクシュマナに見られて; eva — 実に; hatāḥ — 殺された; nairṛta-puṅgavāḥ — ラークシャサたちのすごい頭(ルビ:かしら)たち
翻訳
ヴィシュヴァーミトラが行う供犠の場所で、アヨーディヤーの王である主ラーマチャンドラは悪魔やラークシャサ、そして暗黒の様式で夜にさまよう未開人たちを大勢殺した。ラクシュマナの面前でこれらの悪魔を殺した主ラーマチャンドラが、慈悲深くも私たちに保護をお与えくださいますように。
9-10-6~7
yo loka-vīra-samitau dhanur aiśam ugraṁ
sītā-svayaṁvara-gṛhe triśatopanītam
ādāya bāla-gaja-līla ivekṣu-yaṣṭiṁ
sajjyī-kṛtaṁ nṛpa vikṛṣya babhañja madhye
jitvānurūpa-guṇa-śīla-vayo ’ṅga-rūpāṁ
sītābhidhāṁ śriyam urasy abhilabdhamānām
mārge vrajan bhṛgupater vyanayat prarūḍhaṁ
darpaṁ mahīm akṛta yas trir arāja-bījām
yaḥ — ~である主ラーマチャンドラ; loka-vīra-samitau — 社会あるいはこの世界の多くの英雄たちの真ん中で; dhanuḥ — 弓; aiśam — 主シヴァの; ugram — 非常に激しい; sītā-svayaṁvara-gṛhe — シーター妃が夫を選ぶために立たずんだ広間; triśata-upanītam — 300人の男性で運ばれた弓; ādāya — (その弓を)取り上げて; bāla-gaja-līlaḥ —サトウキビの森にいる赤ちゃん象のようにふるまって; iva — そのように; ikṣu-yaṣṭim — さとうきびの棒; sajjyī-kṛtam — 弓の糸を固く締めた; nṛpa — 王よ; vikṛṣya — 曲げることによって; babhañja — それを壊した; madhye — 真ん中で; jitvā — 勝利を得て; anurūpa — 主の立場と美しさにちょうどふさわしく; guṇa — 質; śīla — 振る舞い; vayaḥ — 年齢; aṅga — 体; rūpām — 美しさ; sītā-abhidhām — シーターという名の少女; śriyam — 幸運の女神; urasi — 胸のところに; abhilabdhamānām — 以前には彼女を獲得していた; mārge — ~の途中で; vrajan — 歩いている間; bhṛgupateḥ — ブリグパティの; vyanayat — 滅ぼした; prarūḍham — とても深く根を下ろした; darpam — 誇り; mahīm — 地球; akṛta — ~であるもの; yaḥ — ~である者; triḥ — 3倍(7の); arāja — 王立の王朝がなく; bījām — 種
翻訳
王よ、主ラーマチャンドラの遊戯は赤ちゃん象の遊戯のようにすばらしかった。世界中の英雄たちの真っただ中でシーター妃が夫を選ぶ集まりの中で、主ラーマチャンドラは主シヴァの弓を壊した。この弓は非常に重くて持ち上げるには300人の男性が必要なのに、主ラーマチャンドラはそれを曲げて弦を引き、まるで赤ちゃん象がさとうきびの棒を折るように、真ん中からまっぷたつにしてしまった。このようにして主は、姿、美しさ、ふるまい、年齢、性質において超越的な質を備えたシーター妃の手に届くこととなった。実際には彼女は、絶えることなく主の胸で休む幸運の女神だったのだ。競争者の集まる中で彼女を獲得してシーターの家から帰る途中、主ラーマチャンドラはパラシュラーマに会った。パラシュラーマは地球から王位を21回奪ったことで非常に高慢になっていたが、王室のクシャトリヤとなって現れた主に敗北した。
9-10-8
yaḥ satya-pāśa-parivīta-pitur nideśaṁ
straiṇasya cāpi śirasā jagṛhe sabhāryaḥ
rājyaṁ śriyaṁ praṇayinaḥ suhṛdo nivāsaṁ
tyaktvā yayau vanam asūn iva mukta-saṅgaḥ
yaḥ — ~である主ラーマチャンドラ; satya-pāśa-parivīta-pituḥ —妻にした約束に縛られた父親の; nideśam — 指図; straiṇasya — 妻にとても執着していた父親の; ca — ~もまた; api — 実に; śirasā — 主の頭の上に; jagṛhe — 受け入れた; sa-bhāryaḥ — 主の妻と共に; rājyam — 王国; śriyam — 富; praṇayinaḥ — 親族; suhṛdaḥ — 友達; nivāsam — 住居; tyaktvā — やめて; yayau — 行った; vanam — 森へ; asūn — 生活; iva — ~のような; mukta-saṅgaḥ — 解放された魂
翻訳
妻との約束に縛られた父親からの命令を実行すべく、主ラーマチャンドラはあたかも解放された魂が世捨て人となるかのように、王国、富、友、幸運を祈る者、そして住居も何もかもを置き去りにして、シーターと共に森へ向かった。
解説
マハーラージャ・ダシャラタには3人の妻がいました。そのひとりであるカイケーイーは非常に心地よく彼に仕えていたため、ダシャラタは恩恵を与えてやりたいと思いました。ところがカイケーイーは「必要となった時にお願いいたします」と言いました。そしてラーマチャンドラ王子が即位する時になって、自分の息子のバラタを王位につかせてラーマチャンドラを森へ送ってほしいと願い出たのです。自分がしてしまった約束に縛られたマハーラージャ・ダシャラタは愛する妻の言う通り、ラーマチャンドラに森へ行くよう命じました。そして従順な息子であった主は速やかにその命令に従いました。解放された魂や偉大なヨーギーが物質的な関心をもたず人生を投げ出すように、主はためらうことなく全てを捨てたのでした。
9-10-9
rakṣaḥ-svasur vyakṛta rūpam aśuddha-buddhes
tasyāḥ khara-triśira-dūṣaṇa-mukhya-bandhūn
jaghne caturdaśa-sahasram apāraṇīya-
kodaṇḍa-pāṇir aṭamāna uvāsa kṛcchram
rakṣaḥ-svasuḥ — ラークシャサ(ラーヴァナ)の妹であるシュールパナカーの; vyakṛta — (主ラーマチャンドラが)醜くした; rūpam — 姿; aśuddha-buddheḥ — 彼女の知性が情欲で汚れていたため; tasyāḥ — 彼女の; khara-triśira-dūṣaṇa-mukhya-bandhūn — カラ、トリシラ、ドゥーシャナを筆頭とする多くの友; jaghne — 彼(主ラーマ)は殺した; caturdaśa-sahasram — 14000; apāraṇīya — 無敵の; kodaṇḍa — 弓と矢; pāṇiḥ — 主の手に; aṭamānaḥ — 森の中をさまよって; uvāsa — そこに住んだ; kṛcchram — たいへんな困難を抱えて
翻訳
苦難の生活を受け入れた主ラーマチャンドラは無敵の弓矢を手にして森をさまよううちに、情欲で汚れたラーヴァナの妹の鼻や耳を切り落として醜い姿になさった。また、カラ、トリシラ、ドゥーシャナを筆頭とする14000人のラークシャサの友達も殺しておしまいになった。
9-10-10
sītā-kathā-śravaṇa-dīpita-hṛc-chayena
sṛṣṭaṁ vilokya nṛpate daśa-kandhareṇa
jaghne ’dbhutaiṇa-vapuṣāśramato ’pakṛṣṭo
mārīcam āśu viśikhena yathā kam ugraḥ
sītā-kathā — シーターデーヴィーについての話題; śravaṇa — 聞くことによって; dīpita — 乱された; hṛt-śayena — ラーヴァナの心の中にある情欲; sṛṣṭam — 作り出した; vilokya — ~のことを見て; nṛpate — パリークシット王よ; daśa-kandhareṇa — 10の頭を持つラーヴァナによって; jaghne — 主は殺した; adbhuta-eṇa-vapuṣā — 金でできた鹿によって; āśramataḥ — 主の住居から; apakṛṣṭaḥ — 遠くに気を取られて; mārīcam — 金の鹿の姿になった悪魔マーリーチャ; āśu — すぐに; viśikhena —鋭い矢で; yathā — ~のように; kam — ダクシャ; ugraḥ — 主シヴァ
翻訳
パリ―クシット王よ、肩の上に10の頭を持つラーヴァナはシーターの美しく魅力的な姿を聞いて情欲で心が乱れ、彼女を誘拐しに行った。主ラーマチャンドラをアーシュラマから引き離すために金色の鹿の姿をしたマーリーチャを送り込んだのだ。その美しい鹿を見た主ラーマチャンドラは住居を離れ、ついに鋭い矢で射止めてしまった。それはまるで主シヴァがダクシャを殺した時のようだった。
9-10-11
rakṣo-’dhamena vṛkavad vipine ’samakṣaṁ
vaideha-rāja-duhitary apayāpitāyām
bhrātrā vane kṛpaṇavat priyayā viyuktaḥ
strī-saṅgināṁ gatim iti prathayaṁś cacāra
rakṣaḥ-adhamena — ラークシャサの中で最も邪悪なラーヴァナによって; vṛka-vat — トラのように; vipine — 森の中で; asamakṣam — 守られていない; vaideha-rāja-duhitari — ヴィデーハの王の娘であるシーター妃の状況によって; apayāpitāyām — 誘拐されて; bhrātrā — 弟と共に; vane — 森の中; kṛpaṇa-vat — まるでひどく動揺した人のように; priyayā — 愛する妻と; viyuktaḥ — 別れて; strī-saṅginām — 女性に魅かれたり、女性と結びついている者の; gatim — 行き先; iti — このように; prathayan — 例を見せて; cacāra — さまよった
翻訳
ラーマチャンドラが森へ入って行きラクシュマナも不在だった時、ラークシャサの中でも最悪のラーヴァナが、まるでトラが羊飼いの居ない間に無防備な羊を奪うように、ヴィデーハの王の娘シーターデーヴィーを誘拐してしまった。そこで主ラーマチャンドラは妻との惜別から悲嘆にくれているかのように、弟のラクシュマナと共に森中をさまよった。このようにして主は、女性に執着した者の状態を自らの例で表したのである。
解説
この節にある strī-saṅgināṁ gatim itiという言葉は、主御自身が女性に執着した者の状態を表したことを示しています。道徳的な慣例では、gṛhe nārīṁ vivarjayet すなわち旅行には妻を連れ行くべきではないとされています。かつて男性は乗り物に乗らずに旅をしたものですが、出かけるときは極力妻を連れて行かないようにすべきとされていました。特に主ラーマチャンドラのように、父親の命令によって追放された場合にはなおさらのことです。至高人格神が自ら例を見せてくださっているように、森であろうと家であろうと女性に心を奪われてしまうと、その執着というのは常にやっかいなものです。
もちろんこれはストリー・サンギーの物質的な面ですが、主ラーマチャンドラは物質世界に属するお方ではないので、主の状況は精神的なものです。Nārāyaṇaḥ paro ’vyaktāt、すなわちナーラーヤナは物質創造を超越しているのです。主は物質世界を創造したお方なので、物質世界の状態の対象にはなりません。主ラーマチャンドラのシーターとの惜別はヴィプラランバとして精神的に理解されていますが、これはシュリンガーラ・ラサ、すなわち精神世界における夫婦間の愛情の円熟さに属する至高人格神のフラーディニーという力の活動です。至高人格神は精神世界でさまざまな愛の交換をなさり、サーットヴィカ、サンチャーリー、ヴィラーパ、ムールッチャー、ウンマーダと呼ばれる兆候をお表しになるのですが、主ラーマチャンドラがシーターと離れていらした時、これら全ての精神的兆候が表れていました。主は非人格でもなければ無気力でもありません。それどころか、主はサッ・チッド・アーナンダ・ヴィグラハ、すなわち知識と至福に満ちた永遠の姿をなさり、あらゆる精神的な喜びの兆候を表しておられるのです。シュリーラ・スヴァルーパ・ダーモダラ・ゴースヴァーミーが説明しているように、rādhā-kṛṣṇa-praṇaya-vikṛtir hlādinī-śaktiḥ、すなわちラーダーとクリシュナの間の愛の交換は主の喜びのエネルギーとしての表れです。主はあらゆる喜びの根源、すなわち全ての喜びの宝庫です。ゆえに、主ラーマチャンドラは精神的と物質的の両方の真実を表されたのです。物質的に女性に執着している人は苦しみますが、精神的に主と主の喜びのエネルギーとの間に惜別の情が湧いている時、主の精神的喜びはさらに増します。このことは『バガヴァッド・ギーター』(9-11)でさらに説明されています。
avajānanti māṁ mūḍhā
mānuṣīṁ tanum āśritam
paraṁ bhāvam ajānanto
mama bhūta-maheśvaram
至高人格神の精神エネルギーを知らない人は主のことを普通の人間であると考えます。しかし主の心、知性、感覚が物質的状況の影響を受けることは決してありません。この事実は『スカンダ・プラーナ』の中でさらに説明され、マドヴァーチャーリヤが引用しています。
nitya-pūrṇa-sukha-jñāna-
svarūpo ’sau yato vibhuḥ
ato ’sya rāma ity ākhyā
tasya duḥkhaṁ kuto ’ṇv api
tathāpi loka-śikṣārtham
aduḥkho duḥkha-vartivat
antarhitāṁ loka-dṛṣṭyā
sītām āsīt smarann iva
jñāpanārthaṁ punar nitya-
sambandhaḥ svātmanaḥ śriyāḥ
ayodhyāyā vinirgacchan
sarva-lokasya ceśvaraḥ
pratyakṣaṁ tu śriyā sārdhaṁ
jagāmānādir avyayaḥ
nakṣatra-māsa-gaṇitaṁ
trayodaśa-sahasrakam
brahmaloka-samaṁ cakre
samastaṁ kṣiti-maṇḍalam
rāmo rāmo rāma iti
sarveṣām abhavat tadā
sarvoramamayo loko
yadā rāmas tv apālayat
実際には、ラーヴァナがシーターを連れ去ることは不可能でした。ラーヴァナが連れ去ったシーターの姿は、シーター妃の幻想的肖像(マーヤー・シーター)でした。シーターが火の中で試された時、このマーヤー・シーターは燃え、本当のシーターが火から出て来ました。
この例から得られるさらなる理解は、この物質界でいかに力を有していようとも女性は守られなくてはならないということです。無防備になったとたんに、ラーヴァナのようなラークシャサの食い物になってしまいます。ここで使われているヴァイデーハ・ラージャ・ドゥヒタリという言葉は、シーター妃は主ラーマチャンドラに嫁ぐ前は父であるヴァイデーハ・ラージャに保護されていたということを表しています。そして結婚してからは夫に守られていたのです。つまり結論は、女性は常に保護されていなければならないということです。女性は自力では守りきれないため、ヴェーダの規則が言うところによれば、女性に独立(アサマクシャム)の余地はありません。
9-10-12
dagdhvātma-kṛtya-hata-kṛtyam ahan kabandhaṁ
sakhyaṁ vidhāya kapibhir dayitā-gatiṁ taiḥ
buddhvātha vālini hate plavagendra-sainyair
velām agāt sa manujo ’ja-bhavārcitāṅghriḥ
dagdhvā — 燃やすことによって; ātma-kṛtya-hata-kṛtyam —主の大義のために命を落としたジャターユの死後の宗教儀式を行ってから; ahan — 殺した; kabandham — 悪魔カバンダ; sakhyam — 友情; vidhāya — 造ってから; kapibhiḥ — サルの長と共に; dayitā-gatim — シーターを救うための手配; taiḥ — 彼らによって; buddhvā — 知って; atha — その後; vālini hate — ヴァーリが殺された時; plavaga-indra-sainyaiḥ — サルの兵士たちの助けを借りて; velām — その海の浜辺に; agāt — 行った; saḥ — 彼、主ラーマチャンドラ; manu-jaḥ — 人間のように現れて; aja — 主ブラフマーによって; bhava — そして主シヴァによって; arcita-aṅghriḥ — その方の蓮華の御足は崇拝されている
翻訳
主ブラフマーや主シヴァに蓮華の御足を崇拝される主ラーマチャンドラは、人間の姿をお取りになった。そうしてラーヴァナに殺されたジャターユの葬儀を行われた。それから主はカバンダという名の悪魔を殺し、サルの首領たちと友達になり、ヴァーリを殺し、シーター妃を救い出す手配を整えてから、大海の浜辺へと向かわれた。
9-10-13
yad-roṣa-vibhrama-vivṛtta-kaṭākṣa-pāta-
sambhrānta-nakra-makaro bhaya-gīrṇa-ghoṣaḥ
sindhuḥ śirasy arhaṇaṁ parigṛhya rūpī
pādāravindam upagamya babhāṣa etat
yat-roṣa — その人の怒り; vibhrama — ~によって誘発された; vivṛtta — ~になった; kaṭākṣa-pāta — 視線によって; sambhrānta — 取り乱した; nakra — ワニ; makaraḥ — そしてサメ; bhaya-gīrṇa-ghoṣaḥ — その大きな音が恐怖によって静まった; sindhuḥ — 海; śirasi — 彼の頭の上に; arhaṇam — 主を崇拝するためのあらゆる品々; parigṛhya — 運んで; rūpī — 姿をとって; pāda-aravindam — 主の蓮華の御足; upagamya — 届いて; babhāṣa — 言った; etat — 次のこと
翻訳
浜辺に着くと主ラーマチャンドラは、海の権化が現れるのを待って3日間断食をなさった。しかし現れないので、ただ海に一瞥を与えるだけでワニやサメも含め海中のあらゆる生命体を恐怖におののかせるという怒りの遊戯をくりひろげられた。すると海の権化は崇拝のあらゆる品々を携えて、おそるおそる主ラーマチャンドラに近付いてきた。海の権化は主の蓮華の御足にひれ伏して、次のように語った。
9-10-14
na tvāṁ vayaṁ jaḍa-dhiyo nu vidāma bhūman
kūṭa-stham ādi-puruṣaṁ jagatām adhīśam
yat-sattvataḥ sura-gaṇā rajasaḥ prajeśā
manyoś ca bhūta-patayaḥ sa bhavān guṇeśaḥ
na — ~でない; tvām — あなた様; vayam — 私たちは; jaḍa-dhiyaḥ — 鈍い心をして、鈍い知性を持って; nu — 実に; vidāmaḥ — 知ることができる; bhūman — 至高なるお方よ; kūṭa-stham — ハートの中心に; ādi-puruṣam — 根源の人格神; jagatām — しだいに進化する宇宙; adhīśam — 至高の主人たるお方; yat — あなたの指図のもとで定着した; sattvataḥ — サットヴァ・グナに夢中になって; sura-gaṇāḥ — そのような神々; rajasaḥ — ラジョー・グナに夢中になって; prajā-īśāḥ — プラジャーパティたち; manyoḥ — タモー・グナに影響されて; ca — そして; bhūta-patayaḥ — 幽霊の支配者; saḥ — そのような方; bhavān — あなた様; guṇa-īśaḥ — 物質自然の三様式全ての主人
翻訳
あまねく遍満なさる至高なるお方よ、私たちの頭は鈍く、あなたがどなた様なのか理解できませんでした。しかし今私たちはあなたが至高なるお方であり、全宇宙の主人であり、不変なる根源の人格神でいらっしゃることがわかりました。神々は徳の様式に、プラジャーパティは激情の様式に、幽霊の頭は無知の様式に迷わされていますが、あなたはこうした全ての質の主(ルビ:ぬし)でいらっしゃいます。
解説
ジャダ・ディヤハという言葉は動物に備わっているほどの知識という意味です。そのような知識しか持たない人には至高人格神を理解することはできません。動物は殴られなくては人間の意図が理解できないものです。同様に、頭が鈍い人は至高人格神を理解することはできませんが、自然の質から厳しく罰せられると主を理解し始めます。あるヒンディの詩人はこのように言っています。
duḥkha se saba hari bhaje
sukha se bhaje koī
sukha se agar hari bhaje
duḥkha kāthāṅ se haya
人は困窮すると教会や寺院に行って主を崇拝しますが、豊かになると主のことを忘れてしまいます。ですから物質自然を通して主に罰せられることは、人間社会において必要なことなのです。それがなくては愚鈍で頭の鈍った人間は、主のことを忘れてしまうからです。
9-10-15
kāmaṁ prayāhi jahi viśravaso ’vamehaṁ
trailokya-rāvaṇam avāpnuhi vīra patnīm
badhnīhi setum iha te yaśaso vitatyai
gāyanti dig-vijayino yam upetya bhūpāḥ
kāmam — あなたが好まれるように; prayāhi — 私の水の上を行ってもかまいません; jahi —ただ征服する; viśravasaḥ — ヴィシュラヴァー・ムニの; avameham — 尿のような汚染物; trailokya — 三界のために; rāvaṇam — 泣いている原因であるラーヴァナとして知られる者; avāpnuhi — 取り戻す; vīra — 偉大なる英雄よ; patnīm — あなたの妻; badhnīhi — ただ架けて下さい; setum — 橋; iha — ここ(この水の上); te — あなた御自身の; yaśasaḥ — 名声; vitatyai — 拡大するために; gāyanti — 栄光を称えるでしょう; dik-vijayinaḥ — あらゆる方角を征服した偉大な英雄; yam — それ(橋); upetya — 近くに来て; bhūpāḥ — 偉大な王たち
翻訳
我が主よ、どうぞお好きなように私の水をお使いください。実際にこの海を渡り、妨害の根源であり三界の嘆きであるラーヴァナの住居へ行ってくださってかまいません。ラーヴァナはヴィシュラヴァーの息子ですが、尿のように有害です。どうか彼を殺して、奥様のシーターデーヴィーを奪還なさってください。偉大な英雄なるお方よ、私の水はございますがあなたがランカーに行かれることを妨害はいたしません。どうかこの上に橋を架け、あなたの超越的な名声をお広めください。あなたのこのすばらしく非凡な偉業に、未来の偉大な英雄や王たちもその栄光を称えることでしょう。
解説
息子も尿も出所は同じ、すなわち性器から放出されると言われます。息子が献身者やとても博学な者であった場合は、息子をもうけるための精液の放出が成功したと言えますが、ふさわしくなく、家族に栄光をもたらさないような息子であった場合は尿も同然です。ここではラーヴァナが尿に例えられていますが、それは彼が三界に障害をもたらす原因だったからです。それで海の権化は主ラーマチャンドラに、彼を殺して欲しいと望んだのでした。
至高人格神主ラーマチャンドラの特徴のひとつは全能であるという点です。主は物質的な困難や障害に関係なく行動なさることができるのですが、御自分は至高人格神であり、ただ神だと宣伝されているだけの者ではなく、一般の投票で選出された者でもないことを証明するために、海上にすばらしい橋をお架けになったのです。今では非凡な活動をすることのない造りものの神が流行り、知性の乏しい人は神がどれほ力のある方なのかを知らないため、ちょっとしたマジックで動揺して造りものの神を選んでしまいます。しかし主ラーマチャンドラは石を浮かせて水の上に橋を架けました。これが神の非凡なるすばらしい力の証明です。普通の人に絶対出来ないことをやって非凡な力を表さない人間を、なぜ神として受け入れなくてはならないのでしょうか?私たちが主ラーマチャンドラを至高人格神として受け入れるのはこの橋をお架けになったからであり、主クリシュナを至高人格神として受け入れるのはわずか7歳の時にゴーヴァルダナの丘を持ち上げられたからです。神はさまざまな活動の中で特別な様相を現されるのであり、悪党のことを神や神の化身として受け入れてはなりません。ゆえに主自らが『バガヴァッド・ギーター』(4-9)でおっしゃっています。
janma karma ca me divyam
evaṁ yo vetti tattvataḥ
tyaktvā dehaṁ punar janma
naiti mām eti so ’rjuna
「アルジュナよ、わが顕現と活動の超越性を理解する者は、その肉体を離れたあとに再び物質世界に誕生することなく、わが永遠の住処に来たりて住むのだ」主の活動はありふれたものではありません。どれもこれも超越的にすばらしく、いかなる生命体にもできません。主の活動の兆候についてはシャーストラの中で全て述べられており、それらを理解して初めて主をあるがままに受け入れることができるのです。
9-10-16
baddhvodadhau raghu-patir vividhādri-kūṭaiḥ
setuṁ kapīndra-kara-kampita-bhūruhāṅgaiḥ
sugrīva-nīla-hanumat-pramukhair anīkair
laṅkāṁ vibhīṣaṇa-dṛśāviśad agra-dagdhām
baddhvā — 架けてから; udadhau — 海の水の中に; raghu-patiḥ — 主ラーマチャンドラ; vividha — さまざまな; adri-kūṭaiḥ — 巨大な山々の頂; setum — 橋; kapi-indra — 強力なサルの; kara-kampita — 偉大な手で動かされた; bhūruha-aṅgaiḥ — 木や植物と共に; sugrīva — スグリーヴァ; nīla — ニーラ; hanumat — ハヌマーン; pramukhaiḥ — ~に導かれて; anīkaiḥ — そのような兵士たち; laṅkām — ラーヴァナの王国ランカー; vibhīṣaṇa-dṛśā — ラーヴァナの弟のヴィビーシャナの指図によって; āviśat — 入った; agra-dagdhām — 以前(サルの兵士のハヌマーンによって)焼かれた
翻訳
シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは言った:巨大なサルたちが手で木や植物を揺らして山々の頂を海の中へ投げ込み、橋は海上に架けられた。そしてラーヴァナの手中からシーターデーヴィーを救い出すため、主ラーマチャンドラはランカーへ向かわれた。ラーヴァナの弟であるヴィビーシャナの指示と助力を得て、スグリーヴァ、ニーラ、ハヌマーンが率いるサルの兵士たちを従い、既にハヌマーンが火をつけたラーヴァナの王国ランカーへ入って行かれた。
解説
木や植物で覆われた巨大な山の頂はサルの兵士たちによって次々と海に投げ込まれ、主の至高なる御意思によって浮かび始めました。宇宙ではたくさんの巨大な惑星が主の至高なる御意志によって、まるで綿のようにふわふわ浮いています。そんなことさえ可能なのですから、大きな山の頂が水に浮かないわけがありません。これが至高人格神の全能なるお力です。主は物質自然の支配下にないため、どんなことでも全て好きになさることができます。実際、主が物質自然を支配なさっているのです。Mayādhyakṣeṇa prakṛtiḥ sūyate sacarācaram、主の指示下になければプラクリティ、すなわち物質自然は作用しません。同様の情報が『ブラフマ・サンヒター』(5-52)の中で与えられています。
yasyājñayā bhramati sambhṛta-kāla-cakro
govindam ādi-puruṣaṁ tam ahaṁ bhajāmi
『ブラフマ・サンヒター』は物質自然がどのように作用しているかを説明する上で、太陽は至高人格神が望まれるように動いていると述べています。したがって、サルの兵士の力を借りて山の頂を水中に投げ込んでインド海に橋を架けたことなど、主ラーマチャンドラにとってはすばらしいことでも何でもないのであり、すばらしいのはこのことが主ラーマチャンドラの御名と名声を保持しているという点です。
9-10-17
sā vānarendra-bala-ruddha-vihāra-koṣṭha-
śrī-dvāra-gopura-sado-valabhī-viṭaṅkā
nirbhajyamāna-dhiṣaṇa-dhvaja-hema-kumbha-
śṛṅgāṭakā gaja-kulair hradinīva ghūrṇā
sā — ランカーとして知られる場所; vānara-indra — サルの偉大なリーダーたちの; bala — 強さによって; ruddha — 止めた、取り囲んだ; vihāra — 喜びの家々; koṣṭha — 穀物が備蓄された場所; śrī — 宝の家; dvāra — 宮殿の扉; gopura — 町の門; sadaḥ — 集会所; valabhī — すばらしい宮殿の間口; viṭaṅkā — 鳩が休む家; nirbhajyamāna — 解体中で; dhiṣaṇa — 高い足場; dhvaja — 旗; hema-kumbha — 金の水がめ; śṛṅgāṭakā — そして十字路; gaja-kulaiḥ —象の群れによって; hradinī — 河; iva — ~のような; ghūrṇā — 惑わされて
翻訳
ランカーに入るとスグリーヴァ、ニーラ、ハヌマーンに率いられたサルの兵士たちは、売春宿、穀物倉、財宝置き場、宮殿の入口、城門、集会所、宮殿の正面、鳩小屋にいたるまで占領した。街中の交差点、演壇、旗、ドームの上についた金の水がめなどが全て壊され、ランカーの街全体は象の群れに破壊された河のようになった。
9-10-18
rakṣaḥ-patis tad avalokya nikumbha-kumbha-
dhūmrākṣa-durmukha-surāntaka-narāntakādīn
putraṁ prahastam atikāya-vikampanādīn
sarvānugān samahinod atha kumbhakarṇam
rakṣaḥ-patiḥ — ラークシャサの頭(ルビ:かしら)(ラーヴァナ); tat — そのような邪魔; avalokya — 見てから; nikumbha — ニクンバ; kumbha — クンバ; dhūmrākṣa — ドゥーンラークシャ; durmukha — ドゥルムカ; surāntaka — スラーンタカ; narāntaka — ナラーンタカ; ādīn — 彼らみんな一緒に; putram — 彼の息子インドラジット; prahastam — プラハスタ; atikāya — アティカーヤ; vikampana — ヴィカンパナ; ādīn — 彼らみんな一緒に; sarva-anugān — ラーヴァナの手下全て; samahinot — (敵と戦うことを)命じた; atha — ついに; kumbhakarṇam — 最も重要な弟クンバカルナ
翻訳
サルの兵士が引き起こした騒動を見て、ラークシャサたちの頭(ルビ:かしら)であるラーヴァナはニクンバ、クンバ、ドゥーンラークシャ、ドゥルムカ、スラーンタカ、ナラーンタカ、その他のラクシャーサたちを呼びつけ、息子のインドラジトも呼んだ。その後プラハスタ、アティカーヤ、ヴィカンパナ、最後にはクンバカルナを呼んだ。そして敵を相手に戦えと、手下たち全てを説得した。
9-10-19
tāṁ yātudhāna-pṛtanām asi-śūla-cāpa-
prāsarṣṭi-śaktiśara-tomara-khaḍga-durgām
sugrīva-lakṣmaṇa-marutsuta-gandhamāda-
nīlāṅgadarkṣa-panasādibhir anvito ’gāt
tām — 彼ら全て; yātudhāna-pṛtanām — ラークシャサの兵士たち; asi — 剣で; śūla — 槍で; cāpa — 弓で; prāsa-ṛṣṭi —プラーサ武器とリシュティ武器; śakti-śara — シャクティ矢; tomara — トーマラ武器; khaḍga — ある種の剣によって; durgām — 完全に無敵である; sugrīva — スグリーヴァという名のサルによって; lakṣmaṇa — 主ラーマチャンドラの弟によって; marut-suta — ハヌマーンによって; gandhamāda — 別のサル、ガンダマーダによって; nīla — ニーラという名のサルによって; aṅgada — アンガダ; ṛkṣa — リクシャ; panasa — パナサ; ādibhiḥ — そして他の兵士たちによって; anvitaḥ — 囲まれて、主ラーマチャンドラ; agāt — (戦うために)前に出てきた
翻訳
ラクシュマナや、スグリーヴァ、ハヌマーン、ガンダマーダ、ニーラ、アンガダ、ジャーンバヴァーン、パナサなどのサルの兵士に囲まれた主ラーマチャンドラは、ラークシャサの兵士たちを攻撃した。兵士たちは刀、槍(ルビ:やり)、弓、プラーサ、リシュティ、シャクティ矢、カドガ、トーマラのようなさまざまな無敵の武器で完全防備していた。