世界で最も読まれている超越的であり、スピリチュアルな経典である『旧新約聖書』と『バガ
ヴァット・ギーター』は、常に私達に大きな甘露の恩寵を与えてくれます。
この小論文は、主イエス・キリストと至高主クリシュナの福音が根本的に大きく一つであるこ
とを見出す為に役立つことが出来るでしょう。どうぞ、これらの主の吉兆なる恵みの教えが永久
に広まり、全世界に主の崇敬と栄光の限りを築かんことを願って。
ハレークリシュナ・ハレークリシュナ・クリシュナ・クリシュナ・ハレー・ハレー
ハレー・ラーマ・ハレー・ラーマ
ラーマ・ラーマ・ハレー・ハレー
※聖書からの引用は2017年版の『新改訳聖書』に拠ります。BGに関してはシュリーラ・プラブパーダの『バガヴァット・ギーター あるがままの詩』を用います。
1.神の御名を賛美する
-引用開始-
謙虚さ、傲慢でないこと、非暴力、寛容、実直
真正な精神の師に近づくこと、清潔さ、不動の精神
自制、感覚を満たす対象から心を引き離すこと
誤った自我意識を捨てること
生老病死を苦厄とみなすこと
無執着、妻子や家庭に愛着しないこと
快・不快の状況下でも冷静であること
私に対して不動かつ純粋な献身的姿勢であること
人里離れて独居を望むこと
世間の人々に執着を持たぬこと
自己を悟ることの重要性を認めること
絶対真理を哲学的に探求すること
以上が知識の本質であり
これ以外はすべて無知であると私は明言する。
―解説―
……クリシュナ意識は非常に簡単な方法であるからだ。
すべきことはただ「ハレークリシュナ・ハレークリシュナ・クリシュナクリシュナ・ハレーハレー/ハレーラーマ・ハレーラーマ・ラーマラーマ・ハレーハレー」を唱え、クリシュナに捧げた供物を食べ、『バガヴァット・ギーター』や『シュリーマド・バーガヴァタム』のような本について話し合い、神像を崇拝するだけである。これら4つのことは人を倖せにする。(バガヴァット・ギーター13.8・9・10・11・12及び解説)
× × ×
だから、こう祈りなさい。
『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。私たちの日ごとの糧を今日もお与えください。私達の負い目をお赦し下さい。私たちも、私たちに負いめのある人を赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救い下さい。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕(マタイによる福音書6・9~13)
-引用終わり-
主イエス・キリストは、ただ唯一絶対の至高人格主神たる全知全能の主に対して、純粋な愛によって仕える事を命じました(マタイ22・36~37)。それはバガヴァット・ギーターでも共通しています(BG12・6~7)。すなわち、バクティ・ヨーガ(信愛)、献身奉仕を教えたのです。
モーゼが授かった十戒には「神の御名をむやみに唱えてはならない」と書かれています(出エジプト20・7)。然し一方で、ダビデは全身全霊で神の御名を賛美せよとも命じています(詩編148・13)。これは一体どういうことでしょうか。全能の主は不完全だから矛盾した教えを出したのでしょうか。
違います。聖書は前後の文脈を注意して丹念に読むことが必要です。モーゼがこの十戒の石板を受け取る40日間の時、その事件は起こりました。全能の主に呼ばれて山に登ったきり一向に降りてこないモーゼに、エジプトを脱出したユダヤ人たちは呆れかえっていました。これだけ苦境の長旅を強いておいて、我々には何もしてくれない。そんな神を我々は信じない。そしてモーゼが降りてこない間、黄金の鋳造で子牛の偶像を創り、それを自分たちの全能の主として祀ったのです。
これには、あろうことかモーゼの兄であるアロンが率先して関わったのでした(主エジプト32・4-5)。そうです。あろうことか勝手に作り出した想像の空虚な神に“主”と名付けてしまったのです。
十戒の規則を改めて思い出してください。むやみに神の名を唱えてはならない。それは、我々人類が神の御名を口にしてはいけないというものではありません。全能の主唯お一人以外に神は無く、絶対的な至高人格神は存在しない。それ以外の神に対して、これこそが真なる全能の主であると勝手に名付けて宣言し、崇拝してはならないと命じているのです。
前述の主イエス・キリストの命じた祈りは、通称「主の祈り」といわれます。世界中のキリスト教徒(クリスチャン)達は毎週、いや、毎日唱えています。キリストは一貫して父なる創造主がもたらした規則を完璧に守りながら、当時の時代に新たな規則をもたらしたのです。
インドでも同じことが起ります。シュリー・チャイタンニャ・マハープラブです。彼は15世紀のインドに降誕し、神の御名を唱えて賛美するサン・キールタン運動を開始しました。『バガヴァット・ギーター』にもありますが、時代によって、求められる宗教的原則は規定されます。
-引用開始-
わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。(マタイ5・17)
× × ×
ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。
それは律法の下にある人々を獲得するためです。
律法を持たない人々に対しては、――私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが――律法を持たない者のようになりました。
それは律法を持たない者を獲得するためです。(Ⅰコリント9・20-21)
× × ×
七四 このカリ時代は、聖なる御名の唱和以外の宗教的原則はない。これは全ヴェーダ賛歌の真髄である。これは全経典の意味である。(クリシュナ・ダース・カヴィラージ・ゴースワミによる『シュリー チャイタニャ チャリタムリタ』アーディー・リーラー第一巻 第七章 第七四節)
-引用終わり-
2.三位一体とクリシュナ意識
-引用開始-
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずできたものは一つもない。(ヨハネ伝1・1-3)
× × ×
初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上に神の霊が水の上を動いていた。
神は仰せられた。「光があれ。」
すると光があった。(創世記1・1-3)
× × ×
このヨーガの行を修め
至高の文字の組み合わせである聖なるオームの音節を唱え
至高人格神を想いつつ体を離れる者は
確かに精神惑星に到達する。(BG8・13)
× × ×
私は
偉大な聖者たちの中ではブリグであり
音響の中では超越的オームであり
供犠の中では聖なる御名の唱名(ジャパ)であり
動かぬものの中ではヒマラヤである。(BG10・25)
-引用終わり-
アレン・ギンズバーグとの対談で、シュリーラ・プラブパーダはオームについて次のように語りました。
-引用開始-
アレン・ギンズバーグ:もしLSDが物質的な執着だとしたら、私はそうだと思うのですが、それなら音であるシャブダも物質的な執着ではないのでしょうか?
プラブパーダ:いいえ、シャブダは精神的なものです。もともと、聖書に「創造あれ」とあるように、この音は精神的な音なのです。創造。創造はありませんでした。音が創造を生み出したのです。ですから、音はもともと精神的なものであり、音によって、、、音から空が発展し、空から空気が発展し、空気から火が発展し、火から水が発展し、水から大地が発展します。
アレン・ギンバーグ: 音は創造の最初の要素ですか?
プラブパーダ:はい、そうです。
アレン・ギンズバーグ:伝統的には、最初の音は何ですか?
プラブパーダ:ヴェーダにはオームだと述べられています。そうです。ですから、少なくとも私たちは、あなた方の聖書から、神が「天地創造あれ」と言われたことを理解することができます。これが音であり、創造があるのです。神と神の音には異いがなく、絶対的なものです。私が「ギンズバーグさん」と言うと、この音と私は、少し異います。しかし、神と神のエネルギーは何の異いもありません。
(690511R1-COLUMBUS - May 11, 1969 - )
(参照URL:https://vanipedia.org/wiki/JA/690511c_%E4%BC%9A%E8%A9%B1_-_%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%96%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%80%E3%81%8C%E8%AA%9E%E3%82%8B%E7%94%98%E9%9C%B2%E3%81%AE%E6%BB%B4_%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%96%E3%82%B9)
-引用終わり-
創世記では先述のように、神の言葉によって世界が創造されたと記しています。そしてクリシュナも言葉(超越的な音響)で一切の万象秩序を創造したことを明らかにしています。
福音記者にして、主イエス・キリストに最も愛された弟子である聖ヨハネは、他三人の福音記者マタイ、マルコ、ルカと違って、この吉兆なる恩寵を冒頭に書いたのは、神と、神のエネルギーは何一つ矛盾しないことを証明するためです。
キリスト教には三位一体という独特の位格が存在します。
それは伝統的に父なる神、神の子、聖霊の三つがそれぞれの人格を所有しながら、一つの存在であるというものです。これらは三角(トライアングル)の形で図説されることが多いです。
よく、これらは無神論者や世俗的な人々、宗教に強い反感を持つ人々、唯物論者らによって、別個の独立した存在であり、キリスト教の権威を向上するために取り入れられた概念であると非難されることが有りますが、主イエス・キリストが父なる神の精神魂を「受肉」したと考えると、それは全く批判として成り立たないものとなります。
クリシュナは、次の通り、『バガヴァット・ギーター』で見事に証明しています。
-引用開始-
至高人格神は語る。
征服者アルジュナよ
私も君も、数えきれないほどの誕生を迎えた。
私はそのすべてを覚えているが
君は何も覚えてはいない。(BG4・5)
× × ×
宗教が正しく実践されなくなったとき
反宗教的な風潮が世にはびこったとき
バラタ王の子孫よ
私はいつでもどこへでも現れる。(BG4・7)
× × ×
人の姿で私が降誕するとき
愚かな人々は私を侮る。
彼らは万有万物の至高主である私の
超越的質を知らない。(BG9・11)
× × ×
-引用終わり-
主イエス・キリストが三位一体となって父と聖霊と繋がり、人格として存在していることは何ら矛盾しないと、上記のクリシュナの言葉からも知ることが出来ました。
では、クリシュナ意識国際協会(ISKCON)アーチャーリャ、シュリーラ・プラブパーダは主イエス・キリストのことをどう説明しているでしょうか。あくまでただの人間に過ぎないと主張したのでしょうか。 宗教家としては偉大だが、異教徒であるからあまり価値は無いと批判的に見ていたのでしょうか。
次の通り、プラブパーダはその反対に、主イエス・キリストを最良の神の子として認め、人類に神の愛を解く為に遣わされたと受け入れています。
-引用開始-
イエス・キリストは偉大なる人物――神の子、神の代表者です。イエスはまちがいを犯
していません。それでも、十字架にかけられました。神の意識を人々に伝えようと努めた
にもかかわらず、逆に十字架にかけられた――それほど恩知らずな人たちでした。イエス
の布教の価値がわからなかったのです。しかし私たち献愛者はイエスを高く評価し、神の
代表者たるイエスに最大限の称賛を惜しみません。
もちろんキリストの教えは、時代、場所、国、人々に応じて伝えられたものです。しか
しイエスが神の遣いであることはまぎれもない事実です。ですから、私たちは主イエス・
キリストを称賛し、尊敬の礼をささげるのです。
メルボルンにいたとき、キリスト教聖職者一行の来訪を受け、「イエス・キリストについ
て、どうお考えですか?」と尋ねられたことがありました。「私たちのグルです。神の意識
について布教したのですから、私たちの精神指導者です」と答えたところ、聖職者たちか
らその言葉が高く評価されました。
至高主の栄光を布教する人はグルとして受けいれなくてはなりません。イエス・キリス
トはそのような偉大な人物でした。イエス・キリストがふつうの人間だと思ってはいけま
せん。経典には、精神指導者を凡人と考える者は忌まわしい心情の持ち主である、と記述
されています。イエス・キリストが凡人だとしたら、至高者の意識を広めることはできな
かったはずです。
(参照元URL:http://radha.web.fc2.com/texts/ssrtexts/ch4-2.pdf)
× × ×
※以下私訳
ゲスト3: 親愛なる恩寵(シュリーラ・プラブパーダ)はイエス・キリストについてどのようにお考えでしょうか?
プラブパーダ: うーん?
マデュディヴィサ: 主イエス・キリストへの私達の見解はなんでしょうか?
プラブパーダ: イエス・キリスト、主イエス・キリスト、は…神の子です。最良の神の子です。ですから私達は彼をとても尊敬しています。 そう、神の意識について人々に教える人は誰でも、私達は尊敬しています。どんな国で、どんな風に説教をしているのか、そんなことは関係ありません。
(MELBOURNE - June 28, 1974 )
(参照URL:https://vanisource.org/wiki/740628_-_Lecture_at_St._Pascal%27s_Franciscan_Seminary_-_Melbourne)
-引用終わり-
このように、主イエス・キリストは、当時の形骸化した律法主義者たちに、真の至高主の愛を普及させるために、降誕し、新しい宗教的原則を広めようと活動しましたが、人類の罪を背負う為に、彼の教えを理解できずに受け入れない愚かな民衆によって十字架にかけられてしまいました。
では、クリシュナはキリストにとってどのような存在でしょうか。シュリーラ・プラブパーダは、エマニュエル・ジャンクラウセン神父との会話で、次のように語りました。
-引用開始-
シュリーラ・プラブパーダ:キリストはどういう意味ですか?
エマニュエル神父:キリストはギリシャ語のクリストスから派生した言葉で、「香油を塗ら
れた者」という意味です。
シュリーラ・プラブパーダ:クリストスは「クリシュナ」のギリシャ語訳です。
エマニュエル神父:それは興味深いですね。
シュリーラ・プラブパーダ:インド人はクリシュナをよく「クリシュタ」と言います。ク
リシュタはサンスクリット語で「魅力」という意味です。ですから、私たちが至高主のこ
とを「キリスト」「クリシュタ」「クリシュナ」と言えば、それはすべてを魅了する神のこ
とを指しています。主イエスが「天にましますわれらが父よ。願わくばあなたの御名のあ
がめられんことを」と言ったとき、その至高者の名前は「クリシュタ」「クリシュナ」だっ
たということです。どうでしょう、この意見に同意されますか?
エマニュエル神父:イエスは、神の子として、私たちに神のほんとうの名前を教えてくだ
さったのだと思います。それがキリストです。神を「父」と呼ぶことはできますが、ほん
とうの名前で呼ぶなら「キリスト」でなくてはなりません。
シュリーラ・プラブパーダ:そうですね。「キリスト」はクリシュタの別のいい方であり、
「クリシュタ」はクリシュナと同じ意味ですが、発音が違うだけです。イエスは、神の名
前を称えよ、と教えられましたが、きのうある神学者の話で「神には名前がない。つまり、
主は『父』という名前だけで呼ぶべきだ」といっているのを聞きました。子どもは父親を
「お父さん」と呼びますが、その父親にも特定の名前があります。同じように、「神」は神
を指す一般的な名前であり、その名前がクリシュナです。だから「キリスト」「クリシュタ」
「クリシュナ」と呼んだとしても、結局、同じ神を呼んでいることになります。
(引用元:http://radha.web.fc2.com/texts/ssrtexts/ch4-1.pdf)
(参照元URL:https://prabhupadabooks.com/ssr/4/krsna_christos_christ)
-引用終わり-
すなわち、クリシュナは三位一体でいう父なる神であり、唯一絶対の至高人格主であると解釈できます。キリスト教の神学では、主イエス・キリストは、父なる神が「受肉」して降り立ったと考えます。それでいて三位一体であるので父なる神とも同格として存在しています。
クリシュナは『バガヴァット・ギーター』4章7節、9章10節で、化身(アヴァターラ)として降り立つことをはっきり述べています。キリスト教神学の根幹たる三位一体と、至高人格神シュリー・バガヴァーン・クリシュナは、なんら矛盾しません。
ここで一つ批判がキリスト教徒の側から起こるかもしれません。
「たとえ父なる神がクリシュナだとしても、クリシュナの神像に礼拝するのは、偶像崇拝にあたるのではないか」と。
たしかにクリシュナの神像に礼拝を捧げ、プラサーダムを捧げます。果たしてこれは偶像崇拝にあたるのでしょうか。シュリーラ・プラブパーダはこのことについて、『バガヴァット・ギーター』12章5節での解説で次のように述べています。
―引用開始―
至高主の未顕現かつ非人格的な様相に
魅せられる者の向上は非常に難しい
肉体を持つ者にとってその修練は
常に困難が付きまとう。
―解説―
……もちろん、寺院に祀られた至高人格神の神像の姿を崇拝することは、偶像崇拝でない。特性を備えた至高主(サグナ)の崇拝と無機質な至高主(ニルグナ)の崇拝に関して、ヴェーダ経典にははっきり書かれている。寺院で神像を崇拝するのはサグナ崇拝であり、それは主が物質の素材で表されているからである。
しかし、石や木や油絵具のようなもので表されていようと、主のお姿は物質的でない。それが至高主の絶対的な資質なのだ。
―引用終わり―
神は精神的な絶対的資質で構成されているので、神像に宿るパラマートマー(至高の魂)がクリシュナそのものへと転換されえるのです。
カトリックも磔刑のイエス・キリストを祭壇に掲げています。聖人の像を崇敬します。プロテスタントでさえも、十字架のオブジェを掲げています。初代教会さえも、魚を用いていました。シンボル的な象徴に過ぎないと、彼らはいうかもしれませんが、根本的な背景には、至高主は自在に変化し、そこへスピリチュアル的な精神的資質によって臨在する事が可能なのだと、暗黙の了解を認めているのです。
聖餐式(聖体拝領)で、葡萄液とパンを使用します。これはキリストが赤ワインを自身の血、パンを肉だとして、これを祈念として行うように、弟子たちに命じました(1コリント11・22-26)。
『バガヴァット・ギーター』9章26節、28節。そして3章13節ではプラサーダムについて書かれています。結局は、クリシュナの献身者も、クリスチャンも、同じく唯一絶対の至高人格主に対して捧げてから食しているのです。本質は変る事はありません。
これらから解るように、クリシュナの『バガヴァット・ギーター』と主イエス・キリストの福音は、本質的に神への崇拝と一心に献身奉仕をするバクティ(信愛)であることは、霊的にも概念も明瞭に一致しているところです。
では最も到達すべきだとシュリーラ・プラブパーダは説いていたクリシュナ意識とはなんでしょうか。その本質は何でしょうか。これはきわめて難しいように想えてしまうかもしれませんが、実にシンプルです。
真の三位一体、これがクリシュナ意識です。
初めに、天地創造の場面を思い出してください。水の上を動いていたのは、神の霊(聖霊)でした(創世記1・1-3)。これが創造の第一原理として作用させるのでした。クリシュナは創造の為にマハット・タットヴァの魂、すなわち御自身の魂を用いたのです(BG10・20)。
そしてそれは三位一体の概念で繋がっています(コロサイ1:27、1ヨハネ4:15)。
―引用開始―
アルジュナよ
私は至高の魂であり
生きとし生ける者のハートの中に宿っている。
私は万物の起源(はじめ)であり、中間であり、終末(おわり)である。
―解説―
最初にクリシュナは、御自身がその最初の拡張体の力によって現れた全宇宙の魂であるということをアルジュナに語られた。物質が創造される以前に至高主は御自身の最初の拡張体によってプルシャ化身を受け入れ、そこからすべてが始まる。故に主はアートマー、すなわち宇宙要素マハット・タットヴァの魂なのだ。創造の原因は全物質エネルギーではなく、実際には全物質エネルギーであるマハット・タットヴァにマハー・ヴィシュヌが入ることで創造が始まる。主は魂である。宇宙現象に入ったマハー・ヴィシュヌは至高の魂として、すべての生命体の中に再び御自身を現される。
(BG10・20及びシュリーラ・プラブパーダ解説)
× × ×
神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。
(コロサイ1:27)
× × ×
だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。
(1ヨハネ4:15)
× × ×
だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。
(1ヨハネ3・6)
× × ×
―解説―
クリシュナは万物のハートの中にいらっしゃるのだから、誰もが皆、至高主の権化であり寺院なのだと献身者は考えなくてはならない。したがって主の寺院に尊敬の霊を捧げるのと同じように、パラマートマーが宿っておられるすべての体にも同様に正しい敬意を払うべきである。
(BG9・12シュリーラ・プラブパーダの解説)
× × ×
あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないこを知らないのですか。
(1コリント6・19)
× × ×
あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
(1コリント13・27)
× × ×
―引用終わり―
マハット・タットヴァは、いうなれば水のようなものです。それに生活の場として存在する魚はブラフマンです。
生命エネルギーを始動させ、生命体を創造するために、シュリー・バガヴァーン・クリシュナは主ブラフマーを御造りになりました。
それぞれが独立したものであり、そして全てそれはクリシュナのエネルギー失くして存在しえないものです。すなわち、三位一体の位格も、互いに独自の人格を有しながらも、全ては父なる神、全能の主へと帰属するのです。